「れんこんネット」の掲示版がインターネット上に復活しました。交流の場として活用して下さい。 旧れんこんネットハンドル「Eggs」(yasushi @ siri.co.jp) [2000.10.25から 2745950回目の表示]
うどんです。 いやー、久しぶりですねー。 ありゃー。懐かしいハンドルネームの人たち。 昨日KJさんと飲み会やってrencon.netが復活したと聞き、さっそくのぞきに来ました。 こんごともよろしくー(^^)
以下、この映画を配給しているシネマテーク・インディアスの太田さんの文章 「アンデスで作られている映画と共に20年」 エスニックコンサート実行委員会「エスニックレター」25号(99年9月14日)掲載 太田昌国 南米ボリビアの映画制作集団ウカマウと付き合い始めて来年で二〇年目になる。 付き合いというのは、彼らの作品を自主上映し、上映収入を制作者に還元し、途中 からはシナリオを共同検討し、最後には共同制作にまで行き着くーーといった二〇 年間の作業のことである。 私は、映画を観ることはそこそこに好きだが、言ってみれば素人にすぎないし、 そんな人間たちが集まってここまでやってこれたことには、我ながら不思議な思い がする。 はじめて彼らの作品を観たのは、エクアドルの首都キトで、『コンドル の血』という題名のものだった。二十五年前のことである。そのころ私のラテンア メリカ各地での放浪生活もすでに二年を越えていて、現地で作られている映画はで きるかぎり観るようにしてきた。しかし、映画を制作しているのはメキシコ、キュ ーバ、アルゼンチン、ブラジル、チリくらいで、あとはハリウッド映画に独占され ているのが、当時のラテンアメリカの映画事情だから、地元の映画に出会うことは 稀だ。 さて、キトの街角で見かけたポスターでは、明らかに先住民インディオの顔つき をした青年が銃を構えている。表情は切迫している。それだけでなかなかの迫力だ 。数少ない地元の映画にちがいない。さっそく観にいくと、なかなかいい映画だっ た。一九六九年に制作されているが、テーマはいわゆる「先進国」が「後進国」( これが当時のふつうの言葉遣いだった)に与える援助の問題だ。当時、米国は革命 キューバの影響力が波及するのを阻止するために、社会革命の原因となる貧困・病 気などの問題の解決を援助すると称して「平和部隊」なるものを派遣し始めていた 。 アンデスの山奥の小さな村に派遣された医師グループのなかには、治療と称して 女性に不妊手術を施した連中が実際に存在した。来るベき地球人口爆発・食糧危機 を前に、「避妊を知らない貧しい第三世界の連中には強制的に妊娠できなくさせる しかない」とでも考えたのだろう。 映画はこの「実話」を描いたものだった。事実を知った先住民の青年は、こんな ことすらあえてする帝国主義には銃を持って抵抗するしかないと考えて、銃を構え て村へ帰るのがラストシーンなのだが、その場面がポスターに使われていたのだ。 いかにも、ラテンアメリカの多くの地域で、農村でも都市でもゲリラ闘争がたたか われていた一九六〇年代らしいラストシーンの設定だ。 監督やプロデューサーは軍事政権下のボリビアを離れてエクアドルに亡命してい た。彼らと会い、話し合った。世界観や歴史観が一致する人びとだった。監督、ホ ルヘ・サンヒネスは白人エリート層の出身だが、ボリビア社会は人種差別的な考え 方にひどく蝕まれていて、先住民に対する差別意識が露骨であり、それは、悲しい かな、社会革命を志す側にすら見られる現実だというのが、彼の考えだった。悪し き意味での個人主義を極限にまで純化させエゴイズムに縛られたヨーロッパ的価値 観の社会を抜け出るためには、個を殺さずにむしろ生かす集団・共同体の原理に貫 かれた先住民社会のあり方に学ぶことが必要だと彼は力説した。 世界規模では帝国主義と植民地支配の問題を構造的に捉えること、かつそれぞれ の国/地域の内部での民族間の関係のあり方を歴史的・現在的にふりかえること。 そんな共通の考えに基づいて、そして何よりも彼らの映画作品の力に私たちが惹か れて、共同作業は始まった。 ボリビアには先住民族のケチュアとアイマラの人びとが住む。両者合わせて、総 人口八〇〇万人の半分以上を占める。メスティーソ(混血の人びと)が三〇%、白 人が一〇%という人口構成の国である。彼らは自分たちが作る映画が、住民の多数 を占める先住民によって観られるためには、映画に登場する人びとはふつうの民衆 であり、話される言語はその母語でなければならないという考えを、一九六〇年代 にすでに実践していた。 アンデスの先住民族といえば、外部からカメラが入っても不信の眼差しで黙りこ くって一言も言葉を発しないというテレビ映像に見慣れた目には、ケチュア語やア イマラ語をほとばしるように喋り、自分の考え・怒り・悲しみを表現する先住民農 民を見聞きすることは驚きだった。日本で最初に上映したのは、一九八〇年『第一 の敵』(一九七四年制作)という作品だったが、これは多くの人びとの先住民観[ 別に、アンデスの、と限ることはないだろう]を確実に変えたと思う。 以後最初の五年間で、一九六二年に始められた彼らの映画制作活動の中で作られ た長篇六本、短篇二本の全作品を上映することになった。彼らは当時、「映像によ る帝国主義論」の完成を志しており、それは現実に、一作ごとに帝国主義の政治・ 経済・軍事・宗教・文化の相貌を描くという形をとっていた。描く主題の突出のみ が目立ったのではない。つまりテーマの政治性・社会性に牽かれてのみ、私たちの 活動が続けられてきたのではない。物語の作り方、映画としての手法、制作集団そ のもののあり方ーーそれらすべてに、サンヒネスが語るところの、先住民社会のあ り方に学んだことが鏤められている。それはおのずと、ハリウッド映画に象徴され るような物語の作り方と手法に対する根本的な文化批判として成立することになる。 ところで、先住民族がみずからの母語を語り、民族衣裳をまとい、保持されてき た文化的伝統を示すーーなどの形で、失われてきた諸権利を回復しうる主体を明確 に描きだすこと自体がめざされた初期の作品では、先住民族インディオの描き方は 避けがたく単調になる。外部の強大な力の浸透・侵略にさらされた「犠牲者」とい う側面で描くことになるのである。 上に述べたような衝撃力を孕む作品だったから、それは欠点とは見えなかった。 だが、一〇年前に制作された『地下の民』[このタイトルは、公認・公式の歴史観 では見えてこない、先住民族の歴史・社会のあり方を示していて、示唆的だった] から、ウカマウは先住民族が内部に抱える矛盾、自ら冒す過ちなどをもギリギリの 地点で描き始める。他方、インディオに「同情」しているにすぎないために、彼ら との関係が危機に及ぶと、「ぼくらは君たちのために闘っているのに」と口にして しまう左翼学生や労組活動家の姿も描かれる。ウカマウは、異民族間の関係のあり 方の「現在」を、日本の私たちも抱える共通の問題として提起しているのだと思え る。私たちはいま、そのテーマをさらに展開した最新作品『鳥の歌』(仮題、一九 九五年制作)の上映を準備している。その折りには、ぜひ観ていただきたいと思 う。 (1999年9月8日記) ==紹介、ここまで== P.S.ところで、踏み台って何? サーバに乗っかって高いところのものを取るとかじゃないですよね。
==映画紹介== 『鳥の歌』 (Para Recibir el Canto de los Pajaros) ホルヘ・サンヒネス監督 一九九五年、カラー、35ミリ、104分 1995年 ボリビア映画祭銀撫子賞受賞 シネマ・下北沢で上映 12月16日から1月19日 東京都世田谷区北沢1-45-15スズナリ横丁2F 電話03-5452-1400 http://www.cinekita.co.jp 1月1日のみ休館です 12:30 14:45 16:45 19:00 地下の民 鳥の歌 地下の民 鳥の歌 【『鳥の歌』のあらすじ】 ボリビアの一映画制作集団が、16世紀にアンデス社会にや ってきたスペイン人遠征隊に関する映画の撮影を開始する。 制作意図は、スペインによる「征服」という歴史的過去を、批 判的に捉えることにある。 独自の歴史を刻んできた先住民の村(そこは、映画スタッフ がふだん住む都会から遠く離れ、アンデスの山並みに囲ま れた、高地の静かな村だった)に到着した一行は、自らが 抱え込んでいた限界に直面する。彼/彼女らは映画で、征 服者(コンキスタドール)たちの振る舞い・行動を批判的に撮 影しようとしていたのだが、無自覚のうちに先行者たちと同 じ振る舞いをしてしまい、彼らと同じ偏見・欠点をもっている ことを顕わにしてしまう。 映画集団の振る舞いに怒った村の先住民たちは松明を掲 げて映画スタッフの宿舎を取り囲み、スタッフの銃で打ち落 とされた小鳥の死骸や石を投げつける。「村から出てい け!」というのだ。スタッフたちは逃れようのない窮地に陥 る。過去を審判しようとして先住民の村に到着した者たち は、現在の審判を受けることになった。なぜか、と自らに問 うスタッフは、やがて、問題の本質に気づいて……。 『コンドルの血』を制作した時に、サンヒネスたち自らが体験 した事実に基づいて物語が構成されている。 製作スタッフ 脚本/ホルヘ・サンヒネス 制作/ベアトリス・パラシオス カメラ/セサル・ペレス 撮影監督/ラウル・ロドリゲス(キューバ映画 研究所)、ギレルモ・ルイス、セサル・ ペレス 音響/セルヒオ・クラーロス 衣裳/ギレルモ・クルス メーキャップ/グラシエラ・クロッサス(キュー バ映画研究所) アイマラ語指導/ベアトリス・パラシオス 音楽/セルヒオ・プルデンシオ 出演/ジェラルディーン・チャプリン、ホルヘ・ オルティス、ギド・アルセ、リネス・エルバス、 マルセリーノ・グスマン、タチアーナ・アビラ 先行配給/太田昌国(日本)、ABP(ドイツ) 監督/ホルヘ・サンヒネス http://www.shohyo.co.jp/gendai/ukamau/tori.html つづく
そういえば、詩林堂のサーバもいちど踏み台にされたことがあります。 よくわかんないけど、Linuxの設定が甘いと狙われるとか? スパムを送ってこられる分にはまあ捨てるだけですが、踏み台にされるとほんとに迷惑で腹立たしいですよね。
どうやら、USの大統領選挙にはけりがついたようですが、あまりすっきりした決まりかたではないようです。これから先しばらくは共和党時代になりそうです。外国人労働者に対する寛容化政策が後退しなければいいのですがね。 私の家のメールサーバーは、ここ数日Spammerに乱用されてしまい、それ対策のために数日サーバーを止めていました。Hackers, Spammers の類の活動は、私が思っていたよりはるかに活発なようで、以前もサーバーを立ち上げたらたちどころに何者かに侵入されて、あわてて不用なサービスを止めて、Tcp Wrapperをちゃんと設定するようにした経緯がありました。今でもログファイルに目を通すと、毎日数回はftpやtelnetで侵入しようとしている者がいる形跡を見ることができます。 詩林堂のサーバーは、まだ被害にあったことはないのですか?
来週あたりに、来年の旅公演の予告DMを出す予定なんですが、 「前は来てたのに、ここ数年"ど"からDMが来ないなぁ」 という方がいらっしゃいましたら、是非現住所をメールでお知らせください。 私宛もしくは劇団どくんご [ dokungo@nifty.ne.jp ] までお願いします。 特にはたくーん! 現住所がわからずに、去年のは返ってきちゃいました。 是非教えてくださいませ。
豊田から八王子まで歩く場合、北回りでも南回りでも地形の関係か、あまり まっすぐに行ける道がなく、ひと駅と思って気軽に歩こうとすると泣くこと になります。素直にタクシーにでも乗った方がいいですね。 以前、北回りに歩いたことがあるので今回は南回りで歩いてみました。月夜 ということもあってなかなか気分がよかったです。景色もいいし。 浅川沿いにずっと歩けるかと思ったらさにあらずで、途中から北野街道に 入ることになりました。 最後、ちょっと判断を誤って、八王子バイパス沿いに歩くはめになったのですが、 地方卸売市場、魚市場の前を通ったりして、へーと思ったりしました。 >深夜の散歩、結構クセになりますね。 そうですね。このごろ、1時間とか1時間半とか、夜中に歩き廻っています。
kjさん、豊田から散歩がてら1時間半ですか。 八王子まで、ひと駅なのにね。 私は、日曜日の夜、藤沢の家から終電一本前で国分寺へ向かうつもりが、いろいろ手違いで終電になってしまいました。 結果は、三鷹どまり。 結局、深夜1時半頃から3時頃まで散歩がてら1時間半、国分寺まで歩きました。 以前おなじヘマをやらかしたときと同ルートで歩くのはシャクだったので、別ルートを探索し、 東京農工大のキャンパスに迷い込んだり 武蔵小金井駅近くに訳の分からないアート・スペース?を見つけたりしながら、 何とか無事に下宿にたどり着きました。 深夜の散歩、結構クセになりますね。
高木さんの集会では、撮影終了後すぐに別の場所に行く用事があったので、だれとも交流できませんでした。 うーん、ちょっと残念。 > どうもありがとうございました。うまくいきました?(^_^;) 肝心の撮影のほうは、あれで良いのだかどうだかまったく分からないんですよねー。 初めての撮影だし。 撮った内容が使えるものであれば良いのですが。
反原発運動支えた故高木仁三郎さんを偲ぶ会に市民2千人 ------------------------------------------------------------------------ 日本の反原発運動を長く支え、10月に直腸がんのため62歳で死去した高木 仁三郎さんを偲(しの)ぶ会が10日、東京都千代田区の日比谷公会堂で開かれ た。会場には約2000人の市民が集い、生前に交流のあった人たちがそれぞれ の思い出を交えつつ「高木さんの存在そのものが運動の希望の星だった」などと 語った。 壇上には笑顔の高木さんの遺影パネルが大きく掲げられ、開会に先立ち市民一 人ひとりが白いカーネーションを献花した。 弁護士の海渡雄一さんは会の中で、高木さんの足跡を紹介しながら、「肉体は 滅びても言葉は永遠。高木さんは最後に『希望の組織化』といわれたが、そのこ とを通して脱原発への道を目指したい」と語った。 また、ルポライターの鎌田慧さんは「市民運動に科学的根拠を与え、それが波 及していったという点に彼の大きな功績があった。彼こそはラジカル、つまりは 根源的にやっていこうという人だった」と述べた。 会では、「死が間近いと覚悟した」という高木さんがあらかじめ「偲ぶ会」の ために残した「最後のメッセージ」も代読された。 「友へ」と題されたメッセージの中で、高木さんは「泣き声や泣き顔は、私に はふさわしくありません。今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な 未来に向かっての心新たな誓いの日、スタートの日として皆で楽しみましょう」 と語った。(10:16)