放射性れんこん Vol.5

1991.10.26発行


目次
  1. 終わったけど・・・終わらない! テント村のその後  とーち
  2. パレスチナ問題を考える イスラエル訪問レポート  TKS
  3. あるネットワーカーの苦悩の日々~ 「空白の10ケ月...(第2章)」   ひとみ
  4. 恐い話 PART3   TOYBOX & OZA
  5. 沖縄水産と日の丸  レジスターN
  6. CHATの魅力  びとこ
  7. いささか個人的な話で恐縮ですが、 とんちゃん
  8. Vanguardのさいえんすえっせい  Vanguard
  9. 「ファジィ」ってなあに 「第2回」 Sach
  10. 夢の話  さたちゃん
  11. 放射線でぇたぁお料理きょ~しつ はたくん

※リンクしていないものは、手書き、漫画などの為ホームページ上には
 掲載しておりません。
 ご覧になりたい方は放射性れんこんVol.5をご覧ください。


終わったけど.......終わらない!
テント村のその後

 <とーち>

 美浜原発2号炉の事故をきっかけとして、関西電力本社前に突如現われ、パソコン通信上でもとっても話題になった脱原発テント村。第3号で紹介したあとの経緯を、テント村とパソコン通信との接点として活躍された「とーち」さんにレポートしてもらいます。
      <編集部>

 放射性れんこんvol3でMcOttoさんが伝えてくれたテント村のその後について、PC-VANのDAISANに上げられたMSGの抜粋などから追ってみます。
 4月9日に、強制排除されてしまったテント村は、いったんは引き上げたのですが、4月の終わりには、再びドーム型テントを建てて、蘇りました。
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91/ 5/ 1 0:29 いま関電前、再び1 <とーち>

 ひさしぶりに関電前に来てみると、なんと!関電南側の三角形の空き地にドーム型の巨大テントができていました。ここは地面が土なので、コンクリートだった関電敷地内より、しっかりしたものが作れるようです。
 で、炊事道具などは、以前と同じようにひとそろいそろっていて、今日は雑炊とうどんをごちそうになってしまいました。(私は前のときから食べさせてもらってばっかりだ)居住性はこっちのほうがいいみたい。
 ここは大阪市の敷地なので、大阪市が要請しないと、強制排除とかにはならないはずで、今のところその様子はないようです。
 関電は、というと、灰色に塗ってめだたなくした金網をはりめぐらして、ガードマンの方が2人ほどいらっしゃいます。入植者を追いだしたものの、結局シャッターは閉めたままで、定常状態というにはほど遠い状態です。
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 非暴力行動としてのテント村の成果というべきか、強制排除などの目立った動きもなく、テント村は続いていきました。そして5月の終盤ごろから、愛知県在住の詩人向井孝さんが発行する「脱原発テント村速報しんぶん」によりテント村はさらに多くの人々に知られるようになりました。
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91/ 6/ 6 0:11
脱原発テント村速報しんぶん NO4 余之字

 毎度お馴染み大阪中之島関電前テント村の発行した新聞の最新版の抄録です。

暮し込みとは
 テント村の「暮し込み」は、いままでの運動で、かつてなかった、新しい戦術といえるもの。
 昭和初年頃にあらわれた、川崎のエントツ男、南海電車の高野山篭城。日本染織の飢餓同盟などではじまった新しいストライキの、防衛、抗議、意志表示の戦術は、その後いろいろの試行をへて、「座り込み」「泊まり込み」「ハンスト」などとして、運動のなかでひろまっている。「暮し込み」はその座り込み、泊まり込みと一見まぎらわしくみえる。がそれは似て非な、まったく異質なものだ。
 「暮し込み」は、つまり「家族ぐるみ」「生活の全部」一切合財の「日常」を、非日常の現場へ持ち込んで、さりげなくいつのまにか「日常化」する。つまり、食事や睡眠や排泄やゴミ処理などもっとも日常生活的な営為までも、武器化して、それが闘いになっているのが、「暮し込み」なのである。それゆえに、3月26日にはじまったあの「座り込み」の延長としてでなく、このテント村は、(偶然の条件と殆ど自然発生的に)いつのまにか日時の経過とともにふと気付くと、まるで新しい運動のスタイル(の戦術)として、「暮し込み」を創り出し、実践していたーというわけだ。
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 6月に入ると、テント村は大きな山場を意識せざる得なくなりました。関電の株主総会が6月27日に行われ、それに向けて強制排除の動きが見え始めたからです。そしてテント村のある緑地帯の持ち主の大阪市は、関電の筆頭株主でもあります。テント村速報の中から、緊張の高まった中での短信を拾ってみます。
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▲ 来訪・・22日。大阪市建設局管理部路政課長代理M、同西北工営所副所長Yほか計六名。いつまでいるのか。またちょく~くるとのこと。

▲手紙より 「テント村」で「生活」しながら、「テント村」の終りを常に考えるということは、まるで「生きてる」ことだと思いました。

▲ 同日・夕七時頃(パブ開店中)天満署警備私服2人。「近所からウルサイと苦情が出ている。いつやめるのか」(パブの机などが路上にでて往来をじゃましいるのをみて)「ずっと続けるのか、今日だけか」(奥村に丁ねいおだやかに話してた)

▲ 同・・テント村の意味についてやけど私は、過程を大切にして、結果または達成については、あまり考えたことがない。
 何といっても現実的に「力」に差は明かだから、たとえ尻切れトンボで終わっても、自分のおもいを充分あらわしたら、次の段階で実をむすぶ。

▲午前11時と午後2時間と2回、大阪市(路政課)数人で来る。12日来訪時の話を文書化したので、O氏に確認を求めるため、という。あいにく新聞印刷で不在。Hさんに、きのうはここに泊まったか。どこにいまいるか。などとしつこくきいたという。

▲大阪市より二名来る。模様偵察らしい。私服、2 3日にナニやるつもりかとしきりにきく。きてみたらわかる、と答える。
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 23日には前代未聞の大運動会が開かれました。種々のイメージトレーニングなどを行った後、最後に大阪市役所前で一大パフォーマンスが繰り広げられました。
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91/ 6/24 0:56 テント村大運動会ルポ <とーち>

 最後の会場は、大阪市市役所玄関広場です。そこで私たちは歌をうたったり、私のグループはグループ名連呼パフォーマンスをしたり(今日はこれを1 00回くらいやったと思う)、龍を踊らせたりしている内に、奥村さんが登場して、断食宣言を読み上げました。

-大阪市・西尾市長さんへ-

まだ見ぬ 私の孫よきみにあうのが わたしはこわいこの世に生れてきて きみが最初にみる風景はコンクリートジャングルと息絶え絶えの樹立入り禁止の 柵のはるかむこう死の灰に埋もれた 不気味なドーム
<中略>
あと3日で関西電力株主総会が開かれるだからこそ私は祈りをこめてここに坐る食事を絶って ただひたすら坐る坐って 私は一途にあなたへおねがいするそのために 私はここにきて祈りながら坐るそのために 私はここにきて坐る
      ’91・6・23
脱原発テント村 奥村悦夫

 後半は私たちも加わって、読み上げました。すでに、そのときにはかけつけた機動隊員がちらほらと見え、かまぼこもようやく着きました。奥村さんは、宣言を読み上げた後、獅子の中に入って獅子舞を踊り始めました。私たちは掛け声でそれに応えます。龍も踊り回ります。市役所の警備員と私服さんらが出ていくように主張したため、私たちはゆっくりと、入るときは張られていなかった鎖をくぐって市役所前の広場から出ました。
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 6月27日、株主総会の日。この日で、テント村は自主撤去することになっていました。それぞれの思いが交錯して時間はゆっくり流れました。
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91/ 7/ 2 1:16 私のテント村 2 <とーち>

 株主総会へいった人達が帰ってくるまでの間、テント村の片づけをしていた。テント村がゆっくりと透明になっていくようだった。株主総会は3時間5 7分ほどかかったそうだ。関電は総会を早く終わらせることをあきらめ、発言はさせるだけさせて、採決で落としていく、という戦法をとった。いわば、正攻法である。総会へいったかたは、発言させる、という意味では今回はそれなりの成果があったといえるが、来年以降はさらに手を考える必要がある、といっていた。
 奥村さんはそれまでは、元気そうだったのだが、夕方になって少し気分が悪くなったということで、医者にいったところそのまま安静にさせられているらしい。
 退社アピールが済んだあと、もうなかなか集まれないだろうから、ということでテント村のみんなで集まって話をした。話をしていくうちに、だんだん本音や弱音も出てきた。なんで、止まれへんのやろう、おもわずため息が出そうだ。しかし、誰もあきらめはしない。明日以降も泊まり込みを続ける人もいる。このつながりを生かしていこうと提案する人もいる。出社時、退社時アピールを続ける人もいる。
 テント村とは、単に物理的な場所や行為を指すものではなかった。それは人と人とのつながりであり、警備員を敵にまわさない思いであり、ほとんど一次産品のみで食事を作る知恵であり、ゴミにならないビラを作る知識である。
 私のテント村は終わらない。
 私のテント村は始まったばかりだ。
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 実際、テント村はなかなか終わりません。関電前でアピールを続ける人もいるし(今もまだ続けている人がいます)、2週間に一度くらいは、テント村によくきていたメンバーで反省会なども開かれています。8月7日には、韓國の反原発資料情報室の方がテント村を訪ねてこられました。ただ、テント村自体はもうないので、テント村のメンバーが集まって交流会が開かれました。
 向井さんは、『非暴力直接行動』No.181,2において、「“ばらばら”のゆくえ、下 - テント村で発見したこと」と題してテント村についてふうさんとの対談形式で書き綴っています。河内丸さんの転載からほんの一部ですが抜粋します。■が向井さん、●がふうさんの台詞です。
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■ テント村は、いろんな点で旧い運動概念をはみだした「新しい運動」なんや。
        <中略>
● テント村に対する批判でも、あんなことでは運動をつくることでけへん。もっと多数派を形成するようなやり方をせんと――というのがあったけど、これなんか、やっぱり「統一と団結」志向で、どんな動きがあってもエエ。多様さが“力”になるという自由連合的考えとまるで逆さまや。

■ つまり、「統一と団結」が逆の作用をしてる。
● 運動が景気のエエときはうまいこといってるのに、対立や分裂がおこるのは、きっと最低のときやもんな。
■ とすれば、ここらでもっと意識的自覚的に「新しい運動」をつくり出さんとあかんわけや。
        <中略>
● いま、とつぜん思い出したんやけど、20年ほどまえ沖縄でおじいさんから聞いた話があるんや。
 『沖縄の海わな、サンゴ礁でできとって、魚を手づかみできるんやぞ。潮が引いたら無数の水たまりが出来て、そこにピチピチ魚がはねとる。潮が満ちる時がまたすごい。潮は沖からせまってくるんやなくてな、無数の水たまりと水たまりが、一つ一つピタッピタッとすいよっせられるようにくっついて、次々大きな水たまりになっていって、それがさらに、はるか遠くの水平線のかなたの潮を引きよせるんや』って。
■ その話、(もっと詳かく考えると、大潮の時、小潮の時、雨、風、暴風雨や日照続きやと、自然の条件だけでなく開発といった人工条件も加えるといろいろ変化するやろけど)、(やや不規則にうねりながら大きく、又は小さく何どもやってくる)「時代の波」と「バラバラ」との関係について想像力をかきたててくれるエエ話や。
● すると、バラバラでもええとちごて、バラバラがええということやな。それから、「バラバラのゆくえ」の答は、珊瑚礁にキラキラしながらひろがる「無数の水たまり」(いまわたしの瞼に浮かんでる)なんやな。
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 美浜事故の調査のほうはといえば、これまで、事故調査委員会は、細管は固定されておらず、振れ止め金具がちゃんと入っていなかったのが唯一の事故原因だ、というニュアンスだったのが、マスコミの目をそらすように、最近になって、やはりサビによる固定があった、ということも認めるようになりました。
 振れ止め金具のほうは、いわば個々の原発固有の問題ともいえるのに対し、サビによる固定はどの原発にも有り得る問題です。したがって、美浜事故をあの原発固有の問題のようにみせかけるために、サビによる固定については、いままで黙っていたとしか思えません。
 50%を超える細管が破損修理している高浜2号炉も、強引に動かそうとしています。 次に大きな水たまりになるべきときを逃さないように、今は、小さな水たまりである自分をみつる時期だ。私はそう、思っています。

*** 「脱テント村創作歌集」と題したテープができました。 ***

 テント村で私が作った曲や、テント村に参加された方の詩に私が曲をつけたテープを作りました。全8曲46分テープに収めています。曲目は以下のようなものです。

 1.テント村にて        とーち作詞、作曲
 2.こっちを向いてよガードマン とーち作詞、作曲
 3.この日           とーち作詞、作曲
 4.テント村の声を聴け     とーち作詞、作曲
 5.ノーニュークス       とーち作詞、作曲
 6.僕たちのテント村      とーち作詞、作曲
 7.君待てども         中野恵作詞、とーち作曲
 8.断食宣言          奥村悦夫作詞、とーち作曲


パレスチナ問題を考える
イスラエル訪問レポート

 TKS

 湾岸戦争後、更に困難な状況に立たされているパレスチナ問題。PLOの国会、PNCが認めた事により、近く、中東和平会議が開かれることになりましたが、これからどうなるのか、どうすべきなのか、全く先が見えないといった状態です。
 そんな中でTKSさん(牧師)が、7月にイスラエルに行った時の報告をれんこんネットにUPしてくれていました。
 貴重な報告だったので、お願いして、「放射性れんこん」用にまとめてもらいました。 <編集部>

私はこの7月にイスラエルに行ってきました。その目的は研修のためでした。私たちキリスト教会では、パレスチナという場所は、聖書の舞台であり、その物語の背景となっている場所なので、見るだけの価値のある所なのです。ある意味では巡礼の旅のようにして、クリスチャンたちの「聖地旅行」というものが、たくさん行なわれています。私が今回参加したツアーは、いわゆる聖地旅行とはすこしばかり違っていて、聖書の舞台であるパレスチナ全域の、歴史、地理、考古学などの学びながら、現地を見て歩くというものでした。

 エルサレムという町は、旧市街と新市街とがあります。旧市街というのは、城壁に囲まれた市街で、これは紀元前1千年くらいからあるものです。でも今のような形になってきたのは、ヘロデ大王がいわゆる「第二神殿」というものを作ってからのものです。それは紀元前の20年くらいのことですので、その古さというのはたいへんなものですね。今でも街路の一部には、そのころの敷石が顔を出しているところがあります。そういうところではキリスト教徒たちは、イエスさまが実際に歩いた敷石だというので、感動するわけです。
 この旧市街というのは、一辺がおよそ1キロメートルほどの、ほぼ菱形に近い四辺形をしています。新市街は、おもにこの旧市街の北側と西側に広がっています。新市街は近代的な都市ですが、旧市街は、まるでタイムスリップをしたかのように、2千年前の姿をとどめているような町です。
 この小さな町の最も重要な所である神殿域(「テンプル・マウント」と言います)は、今ではイスラム教の管理する所となっています。その中心には「岩のドーム」というのが、金色のドームを輝かせています。このドームの前では、毎週金曜日にはイスラム教の礼拝が行なわれています。この神殿域の北側は、イスラム教徒の地区。神殿域の西側、いわゆる「嘆きの壁」と呼ばれる西の壁の西側は、ユダヤ人地区。そしてさらにその西側がアルメニア人地区。そして西北の部分がキリスト教地区と、旧市街は四つの地区に分かれています。分かれていますと言っても、なにか柵がしてあるわけではなく、互いに行き来は自由です。ユダヤ人地区には、ハイクラスのユダヤ人たちが住んでいるということで、実にきれいな町並みです。キリスト教地区には、イエス・キリストが葬られた場所を記念する「聖墳墓教会」をはじめ、おもなキリスト教会があります。
 イスラム教徒地区は、古くからの町並みがごちゃごちゃとつながる所です。この地区にアラブ人たちの商店街があります。この商店街には、2,3メートル幅の道路をはさんで、小さい商店がびっしりと並ぶ商店街があります。午前中にこの商店街に行きますとたいへんです。買物客でごった返しています。商店は食料品から日用雑貨類のあらゆるものを扱っている店が並んでいます。押すな押すなの人混みで、買物もままならぬという有様です。最も込み合うダマスコ門に近い所などは、東京の通勤電車のように、身動きもできないほどで、ただ人に押されて動いているというようです。

 

 そこにはアラブ人たちの生活力のバイタリティのようなものが感じられます。いまパレスチナ問題として問題となっているパレスチナ人は、アラブ人です。ですからこのバイタリティにあふれた人々の群れは、パレスチナ人たちなのです。このようにして旧市街の様子を見ていますと、パレスチナ問題というのは、いったいどこの国のことだったろうかと思えるようです。庶民のレベルでは、あくまでも表面的には、穏やかなもので、共存しているようです。

 

 エルサレムというのは、一大観光地です。キリスト教徒たちにとっては、重要な巡礼の地であり、学問的な研究の場であり、また信仰の重要なルーツでもあります。ですから多くの観光客がエルサレムを訪れます。そしてその観光客相手の商売、商店が軒を並べています。旧市街では、最も多く観光客が集まるのは西の壁周辺です。ここはまた、ユダヤ人たちにとっては、神殿域をイスラム教徒に奪われてしまっている現在では、唯一の祈りの場所となっています。紀元70年に、ローマ軍によって、ヘロデ大王が作った壮麗な神殿を焼き払われてしまってからは、この西の壁で、彼らは嘆きの祈りをするようになったのです。そのことからこの西の壁は、ふつう「嘆きの壁」とも呼ばれています。
 この西の壁に行くのには、「糞の門」というへんな名前の城門からはいります。この門の名前は、昔、この門からエルサレムのゴミを搬出したということからつけられたものだということです。なるほど「糞の門」ですね。この門の周辺には、パレスチナ人の物売りがたむろしています。日本人をみつけると「ジャパニーズ?」と声をかけてきます。そして観光みやげになる絵はがきや、装身具などを押し売りにやってきます。
 ここだけでなく、特にパレスチナ人の地区にある観光地では、どこでもこのような物売りが群がってきます。エルサレムの東側は、オリーブ山といって、聖書の舞台では重要な場所です。そこにもいくつかの有名な教会があります。そこは観光客が次々と訪れます。ここにもたくさんのパレスチナ人の物売りが待ちかまえています。彼らの物売りはまことにしつこいのです。観光客は見るべき所でガイドさんの説明を聞くと、次に移って行くのですが、その移動の間をねらって、みやげ物を売ろうというのですから、たいへんです。彼らはどこまでもどこまでもついてきます。売るものは絵はがきとか、エルサレムの大きな写真とか、装身具のようなものです。絵はがきの束などを見せながら「ワンダラー。ワンダラー」(すなわち1ドル)と叫んで、ついてきます。
 その中でも特に心を痛めたのは、そのようにして観光客に物を売りつけようとしているのは、多くは子どもたちなのです。それも小学生の上級生くらい、10歳くらいの子どもたちがほとんどなのです。彼らは自分の小遣いをかせぐために、物売りをしているのではないのです。彼らは生活費のために働いているのです。
 もちろんパレスチナ人たちにも学校はあります。でも学校に行けるのはパレスチナ人の中でも、豊かな家庭の子どもたちです。一般の家庭では、子どもは10歳くらいになると、親も学校に行かせるよりは働かせる家庭が多いということです。買物客でごったがえすダマスコ門の周辺では、子どもたちが露天の店、多くは畳一枚くらいの板の上にいろんな商品を並べただけのものですが、そういった店の売子をしているのです。
 最も私の心を痛めさせたのは、女の子でした。男の子たちは、そうやって大声を張り上げながら物売りをしていますが、女の子はそうではないのです。あるところで、10歳にはならないように見えるひとりの女の子が、私についてきて「シェケルちょうだい。シェケルちょうだい」(もちろんアラビヤ語で言うのですが意味はわかります)と言ってついてくるのです。私はかわいそうになって、どうしようかと歩きながら考えました。ただあげるのではなくて、写真を一枚とってやって、そして1ドルあげようかなどと考えていたのです。そのうちに彼女は、あきらめたのでしょう、去って行ってしまいました。「シェケル」というのはイスラエルのお金のことで、日本円にすると60円くらいになります。そして1ドルは2.4シェケルにあたります。このことは今でも私の心の中に傷のようになって残っています。もっと早く1シェケルでも1ドルでも、だまってあげればよかったと思っています。ほんとうにかわいそうなことをしたと、心が痛む思いです。
 もちろん、そうしたからといって、なにか世界的に立派なことをしたということでもないし、その子にとっても、それがどういう意味を持つものなのか、一過性の旅行者にはわからないことです。でも同じ旧市街の中で、狭い道路を一本隔てたユダヤ人街の子供たちは、立派な服装をして、両親と、そして家族連れで町の中を歩き回っているのです。そういう姿と比べると、その生活の格差というものは、計り知れないものがあるのを感じさせられます。いったいこの格差は何なのか。どうしてなのか、そしてそういう問題について、何をすればいいのか。ほんとうに考えさせられる現実でした。
 考えてみていただきたいと思うのです。日本の子どもたちは、日常の生活はどうしているのでしょうか。生活に追われて、学校に行けないという子どもがあるでしょうか。いやむしろ、生活の豊かさの中で、病み疲れてしまっているような子どもたちがあるのではないでしようか。どっちが幸福なのでしょうか。私には、あの観光客を相手に、「ワンダラー、ワンダラー」と叫んでいる子どもたちの方が、何か生き生きとしていたように感じたのです。これは錯覚なのかもしれません。
 民族のプライド。国境がどうのこうの。そういったことも重要でしょう。でもそういうプライドをたてることと、あの少女に1シェケル与えることと、どっちが重要なことなのでしょうか。もちろんなんでも彼女に1シェケル与えれば、それで問題は解決するということではないでしょう。あの10歳にもみたない女の子に、観光客相手に1シェケルを求めさせる、その社会的な背景が、深刻な問題ではないかと、私は感じるのです。どうしてそういう現実が生まれるのか。なぜあのような格差が生じるのか。そういった社会的な問題の深刻さを、真剣に考えなければならないのではないかと思うのです。

 

 今回は、いわゆるウエスト・バンクのことについて、書いてみます。ご存じのように、ウエスト・バンクには北と南とあります。その両方とも、聖書の出来事の舞台としては重要な所があります。ですからキリスト者の巡礼の場所としては大切な所が含まれています。南ではヘブロン。北ではシェケム(現在のナブルス)とかサマリヤなどがそうです。私たちのツアーでは、この両方とも行くことができませんでした。イスラエル側の車、あるいは人間と見ると、そこのパレスチナ人たちは石を投げ付けるというのです。

 

 このような状況でしたが私たちは、エルサレムから南へ15キロほどのところにある「ヘロディオン」というのを見ました。これは何かと言いますと、ヘロデ大王(BC 30-AD5)が造った城の跡です。ヘロデという人はローマ皇帝から、このユダヤの国の治安をまかされていた人です。彼はユダヤ人の御機嫌を取るために、神殿を大々的に改修したり新築したりしました。そのほかいくつかの巨大な建造物を残しています。
 けれども彼は非常に疑い深い性格で、いつもユダヤ人を恐れていました。ですからこのエルサレムから15キロほどのところに、城を造り、もしユダヤ人たちにエルサレムを追われたら、この城に立てこもるという計画だったようです。この城というのは、日本の城とはぜんぜん違うもので、小高い丘の上に、石を積み上げ、さらにその周りに小石で傾斜を造り、丘の傾斜と一体化して、全体がちょうど小高い丘のようになるというものです。そしてそこに出入りするのには、中腹から数本のトンネルを造り、そこから頂上にある宮殿に直接はいれるようになっているのです。
 このヘロディオンのあるところは、ウエスト・バンクの一部で、パレスチナ人たちの村が点々とあります。この辺はユダの荒野と呼ばれる荒れ地に近い所で、日本のような緑などは、見渡す限りありません。一面、茶色の風景です。それでもここでは冬の雨季の間には、小麦を栽培して収穫を得ているのです。この辺では年間の雨量は3 00から400ミリということです。日本ではちょっとした集中豪雨などがあると、このくらいの雨量は1日か2日で降ってしまう量です。このわずかな雨を期待して彼らは農業をしているのです。ですから日本のように沢山の収穫などは期待できないものと思われます。
 こういう土地には、岩地にしがみつくようにして、茨のような植物が生えています。これは長い刺があって、それに刺されるととても痛いのです。でもなんと、荒野で育てられる山羊は、この茨を食べているようです。そのほかブドウとかオリーブなどが栽培されています。ブドウは日本のように棚を作って、その上を這わせるというのでなくて、直接地面の上を這わせています。

 

 イスラエルの山地は、石灰岩の岩で出来ています。ですからブドウ畑は、20センチくらいの石灰岩の砕いた岩だらけなのです。こんなところでよくブドウが育つと思えるような畑です。ところがこの石灰岩というのは、空気中の水分を吸い取る性質があるのです。7月のイスラエルは日中は30度くらいですが、明け方はぐっと冷えこんで、20度以下になります。そのため乾季には雨は降らなくても、その冷え込みで空気中の水分が、石灰岩の小さい岩によって吸い取られるのです。そうやって吸い取った水分は、岩から地中に吸い込まれて、荒野の植物のための水の補給をしているのです。
 イスラエルの自然は、豊かな自然に恵まれている私たちには、とても考えられないような厳しさがあります。そういうところで、わずかな植物が、まさに土地にしがみつくようにして生きているのです。パレスチナ問題を語るのに、なぜこんなにイスラエルの自然について長々と述べてきたかといいますと、この厳しい自然の中で生きているパレスチナ人たちの生活というのは、この荒れ地に生きる植物と同じように、まさにその土地にしがみついて生きていると、私には見えたからなのです。雨季のわずかな降雨量に頼り、乾季には空気中の水分を何とかして吸い取って生活しなければ生きられないような、そのような生活環境の中で、彼らは、ほんとうにその土地にしがみついて生きているのです。
 ヘロディオンという小高い人工の丘の上に立ちますと、360度の展望が開けます。目の下にはいま述べましたようなパレスチナ人の村があります。そしてその少し向こうには、新しい赤い屋根のしゃれた住宅の集団が見えています。これはユダヤ人たちの新しい入植地なのです。そしてなんと、パレスチナ人の村と、ユダヤ人の新しい入植地の間には、イスラエルの軍隊の駐留地があるのです。銃を持ったイスラエルの兵士が、パレスチナ人の村をにらんでいるのです。
 厳しい自然の中で、その荒れ地にしがみつくようにして生きているパレスチナ人と、武装した兵士によって守られて、新しいしゃれた住宅に住んで、エルサレムなどに働きに行っているイスラエル人の生活。私の目の前に展開されたそのあまりにも歴然とした格差に、私はほんとうに涙が出るような思いでした。自分たちの土地に強引に入り込んでくるイスラエル人たちと、それを軍隊の圧力をかけてでも守るイスラエル政府のやり方に、パレスチナ人たちが反抗するのは当然ではないかと思えるのです。パレスチナ人から見れば、強引に自分たちの土地を奪われているのです。しかも銃によっておどかされて。
 もちろんイスラエルの側にも言い分はあるのです。ソ連からのユダヤ人たち、そしてエチオピアで起こっている内乱の中から救出したユダヤ人たち、このエチオピア難民の救出作戦は、あまり知られていないようですが、5月25日にイスラエルは国を上げての「ソロモン作戦」で、1万4千人もの難民ユダヤ人を救出するという離れ業をやってのけたのです。ということは、一夜明ければイスラエルの人口が1万4千人増えたということを意味するのです。この人たちをどこに住まわせ、どのようにして生活できるように援助するか、そういったことを考えれば、とにかく、なりふりかまわず、入植地を次々と作っていかなければならないというのも、理解できないことはないでしょう。
 この10月には、ようやく中東和平のための話し合いが行なわれる予定になりました(でもまだ何も音沙汰ありませんね)。問題の解決の鍵は、イスラエルが今のいわゆる「占領地」を返すかどうかにかかっているようです。イスラエルは絶対に返さないという態度を取りつづけていますが、そうである限りはイスラエルは孤立してしまいかねません。アラブもイスラエルも、互いに戦争は割に合わないと思っているようですが、イスラエル側が強硬な態度を取りつづけると、またまた戦いが起こりかねない雰囲気です。なんとか話し合いがつくようにと、私も願っています。


あるネットワーカーの苦悩の日々
「空白の10ケ月・・・(第2章)」

 by H

 身を切るような冷たい風が容赦なく吹き付け、街は新しい年を迎える準備に追われ賑いを見せている。私はといえば、タイム・スリップでもしたかのような原始的な生活を強いられ、それこそ囚人同様の扱いの中、近い将来以前のような生活に戻れることを夢見ていた。
 何不自由のないごく平凡な生活から、突如として奈落の底に突き落されてようやく1ケ月が経とうとしていた時である。今までの日常の楽しみ(快楽..)をすべてこの悪夢のような運命に奪われ、わずかな希望だけが私の生きる糧だった。....
 この頃から、私の不可解な行動が目につくようになった。例えば、ふと電話がつながっていないモデムの電源を入れ、端末ソフトを立ちあげておもむろにキーを叩く。当然、画面には何も出てこない。そんなことは百も承知だった...。それでも、何かの間違いで、つながってくれたら....。(はっきりいって、現代科学をナメている)そんな思いで、幾度となくモデムの電源を入れ端末ソフトを立ちあげる。それはまるで何かにとりつかれているような、そんな感じだった。その頃から、夢の中でモデムのキャリア音が幾度となく聴こえてくるようになった。ふっと、画面を見てみるが文字のひとかけらさえない。そして、言い表せようのない虚無感が私を襲ってきたのだった。真っ暗な部屋の中で、そっとブラインドを開けて外を覗く。人も街も、すべてが明日を夢みているのだ。人の幸福を怨むわけではなかったが、それでも私を襲った悪夢のような運命を呪った。やはり、私は闇の中でしか生きていけないドラキュラでしかないのか...と。

12月24日、クリスマス・イブ。
 街は、いつにない賑いを見せる。この日、私は若い女性の血をいただく。(これは一応、ドラキュラとして当然のことだから)実は、私の好みははっきり言ってうるさい。まず、年齢は23、身長155~160の間、体重は48Kまで。おもわずよだれを出しそうな女の子でないといけない。さもなくば、食欲を減滅してしまうから。この出来事は、私にとって唯一の喜びであった。たとえ、一瞬だけでも悪夢のような生活を忘れ幸福と思えた、それだけで十分だった。やがて、そのわずかな喜びも忍びよる第二の不幸に跡形もなく消し去られた。

 師走、希望に満ちた新しい年を迎えようとしていたその時、追い打ちをかけるように私を「低血圧症」という第二の不幸が襲いかかってきた。この頃から、血圧が異常に下がり始め、1日8時間の労働さえ苦痛となってきたのである。最悪の環境と身にしみる寒さが私を無き者にしようとしている。ドラキュラとしてのサガなのか、血液を造る器官の機能が低下し、貧血を起こしている。しばらく、輸血と点滴を受けるはめになってしまったのだった。できれば、クリスマスの時のように若い女の子の血をいただきたかったのだが、こればかりはどうしようもない。付き添ってくれた看護婦の一人が私のきびしい眼鏡に叶ったのだが、なかなか私の手に落ちてくれない。ドラキュラというのがバレてしまったのか、やむなく諦めることとした。この「低血圧症」だが、いかんせん朝に弱い。当時、最高血圧80を切った私は、一度寝ると起きないようなそんな不吉な予感を覚えた。だがしかし、その不吉な予感はやがて消え去ることになった。ただ、相変わらず血圧は上がらず、その為に毎日10時出勤という恐れ多い日々を過ごすことになった。それからというもの、医者が勧める食事を欠かさず取るようにしているが、さすがにニンニクは勘弁してもらいたい。(なにせ、ドラキュラはニンニクには手も足も出ないのだから)

 こうして、原始的な環境を受け入れるべく、私は無言の努力を続けた。

 

 その頃から、突如としてアクセスしなくなった様々なネットワークの仲間内で「H氏」の失踪が話題(かどうかは知らん..)となっていた。が、原始的な生活の中、アクセスして現状を連絡しようにも、その手段がない。やがて、私の知らない間にその話題は勝手に独り歩きし始めたのである。

 「天国に召された」
 「外国に行った」

およそ私の予想のつかない方向へ.........。


沖縄水産と日の丸
「れんこんネット」と沖縄の「BBSてだこ」の間でのやりとりから

 編集:レジスターN

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 発端は、れんこんネットの雑記帳に次のような書き込みがあったことから始まりました。
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 以下、紙面の節約とわかりやすくするために、
 転載メッセージのヘッダを次のようにします。
  《れんこん》
   れんこんネット「雑記帳」から
  《てだこ》
   BBSてだこ「平成時代のまつりごと」から

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《れんこん》 Subject: びっくりしました。
Date : 12:08am 8/22/91 Author: ハタクン

 21日のニュースステーションで、ソ連の情報の次に高校野球をやったのですが、そこで沖縄水産の地元での応援の場面が流れました。

 で、なんと、そこでは、日の丸を書いたはっぴを着たおじさんなどが音頭!?をとっていて、で、テレビのある、人の集まっている大きな部屋中日の丸だらけ。船にもみんな日の丸が上がっていて・・・。ばんざーいばんざーいってみんなでやってるし・・・。
       ### 略 ###
 いったい、あれは何なのでしょう??今まで私の聞いてきた沖縄だとは、とても信じられません。国体をやってから、がらっと変わってしまったのでしょうか?なんか、きつねにつままれた感じで、というか、頭が混乱していて、わけわかめです。
 あれは、沖縄でも、ほんの一部の事なのか、あるいは、沖縄中あんなになってしまったのか。
       ### 略 ###
 もし、あれが、一部地域だけの事なのだったら、ちゃんとそう断るべきで、沖縄全体があんなふうだと思われたら大変な誤解を産むことになるのではないでしょうか。
 また、あれが沖縄の今なのだとしたら、いったい私たちが今まで抱いてきた沖縄の幻想って何だったのでしょう。

 これ、ソ連の事情よりも恐かったので、DAISAN・れんこん同時掲載します。
                         はたくん
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 あー、もう50行にもなってしまった!まだまだ、紹介しないといけないメッセージは山のようにあるというのに。
 このような状況ですので、編集者の独断で、人のメッセージの途中をガンガン切りきざみます。原文を書いてくれた人にはごめんなさい。  いかん、ここで7行も費やしてしまった。

 さて、このはたくんの書き込みへの「れんこん」の反応は、それほど活発にはありませんでした。
 沖縄返還の時のことを子供心に覚えている年寄り組?から少し反応がありました。
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《れんこん》 Subject: 沖縄は難しい
Date : 1:55am 8/22/91 Author:REN20601 (MIZU)

 復帰運動の時に、屋良主席(後に革新知事となる)を先頭にして日の丸を振って、日本への復帰(という言葉もおかしいけど)を訴えた。 という話しを沖縄の歴史の本で読んだ憶えがある。
(でもその本が実家にあるからいま確認できないけど)ただ、日の丸・君が代の感染率(普及率)がもっとも低いことはいえると思う。
MIZU

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《れんこん》 Subject: そうですね
Date : 3:35am 8/22/91 Author:レジスターN(レジN)

 MIZUさんの言っているとおり、沖縄では、復帰前は日の丸は運動のシンボルみたいなもんだったようなんですね。
 復帰後は、文部省なんかの「日の丸・君が代攻撃」にもっとも鋭く反発したのが沖縄であるということも事実としてあるのですね。

 ですから、ああいう高校野球の応援みたいな時になったら、どのような反応になるのか、ちょっとわれわれにはよくわかりにくいところですね。
       ### 略 ###
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 ここから、沖縄の「BBSてだこ」のsysopのzukkunさんが転載を始めてくれます。
 「れんこん」のメッセージを「てだこ」に紹介して、さっそく沖縄からのレスポンスを返してきてくれました。
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《てだこ》 Title:沖縄水産と日の丸
>Date: 4:51am 8/26/91 Author:tdk01022(keiji)
       ### 略 ###
沖縄に住んでいる私に言わせれば、

『そのニュースを観たい!
 信じられない。
 いったい何なの?
 そんなことしたら、村八分、いや市八分、県八分にされるぞ!』

と、いった感想ですが・・・????です。
       ### 略 ###
     1991-08-26 (Mon) 04:28 Kei

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《てだこ》 Title:沖縄水産と日の丸
>Date:10:03pm 8/26/91 Author:tdk01010(sirius)
       ### 略 ###
ごく一部なのではないでしょうか。
少なくともsiriusの周りではそのような光景はみられませんでした。
平和通りでの応援でもそういうのはなかったんじゃないかな。(注意して見ていなかったのでよくわからない)
1991-08-26 (Mon), 03:47 sirius
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 と、まぁこんな感じのメッセージが転載されてきて、「やはりあれは、沖縄では異様な光景と見てよさそう」と思ったのは早とちりでした。この転載はほんの序章であり、「てだこ」では、これから熱い議論が始まり、それがどんどん転載されてくることになるのでした。
 一方「れんこん」の方では、沖縄からの熱いメッセージに何もレスできず、ひたすらROMするのみに陥ってしまうのでした。「どんなに、忙しくてもこの問題だけは黙っておけない」という緊迫感がないのでしょうね、「れんこん」のメンバーには。
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《てだこ》 Title:沖縄水産と日の丸
>Date:12:02am 8/28/91 Author:tdk01016(ruchoo)
       ### 略 ###
...私はぜんぜん驚きませんでした。むしろ、そういったことを異様なもの、ごく一部としてとらえることの方に驚きを感じてしまいました。
 もし私がそのニュースを見ていれば、あー、またやっとるな。しょーもない、という感じで軽く流したことでしょう。
 ある年代以上の世代には、そういうものが基本的なメンタリティとしてあるように思いますよ。特に戦中派とか。
       ### 略 ###
 どんな話を聞いたかわかりませんが、沖縄は作られたイメージで語られることが多いように思われます。自分の理想を投影したりして。ヤマトにいたときはよく聞かされてウンザリしたもんですよ。でも、そのイメージが沖縄に逆輸入されて、沖縄の人間がだんだんそんな風に自分を変えていく、みたいなところもあるような気がします。
これはちょっとおもしろい現象です(そう思っているのは私だけかも知れませんが)。

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《てだこ》 Title:沖縄水産と日の丸
>Date: 2:26am 8/28/91 Author:tdk01033 (ma-na)
       ### 略 ###
 アメリカヌユーの時代に(復帰前)日本に復帰したくてその象徴に日の丸を振りかざしたことは事実ですが、その後に日の丸と君が代の問題に気付いたじゃぁありませんか「私らは気が付かなかった」ってね
 これほど、生々しく地域として大きく働いているところはありませんよ

 でも、はっきり言って、
 一部の人間です、(日の丸を喜んで飾るのは)
 単純に考えてそうでしょ?(ruchooさん怒るなよぉ)(^_^;)
 めだってやってるわけではないです
 だって、情報に詳しいてだこの人間だって「うっそぉ」って言ってるんだもん
       ### 略 ###
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《てだこ》 Title:沖縄水産と日の丸
>Date: 8:12am 8/28/91 Author:tdk01172(trucha)
       ### 略 ###
でも復帰の時、テレビで私は見ました。多くの沖縄の人が日の丸を振っているのを。今「てだこ」で教育現場での頭髪規制の問題が取り上げられていますが、おそらくruchooさんがそちらで述べられている、みんながみんな、丸がり反対派でないといけないようになるのが恐い、といった感が、私にはこの日の丸、君が代問題には感じられます。
       ### 略 ###
...私は日の丸・君が代が極端に好きなわけでも何でもありません。ただ自分の国の国旗・国歌問題がまだこの地では治まらないことにやきもきしているのです。海外に出て自分の国の旗や国歌を一点の曇りもなくアピール出来ないのは悲しいことです。
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 「てだこ」の方では、「れんこん」から出された問題提起の枠を越えて、「国旗とは、国歌とは・・・」という方向に議論は発展していきます。
 「てだこ」から転載されてくるメッセージも、これから先どんどん続きます。
 次のような問いかけも発せられました。
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《てだこ》 Title:沖縄水産と日の丸
>Date: 5:37pm 8/31/91 Author:tdk01172(trucha)
       ### 略 ###
特に「れんこんネット」の方にお伺いしたいのですが、日の丸の抱えている問題について、歴史を見直し、それでもあえて日の丸を(十字架のように)使うことによって、その重い重い歴史を踏み締めながら、国際社会に貢献できる日本になるように努力していくのが望ましいのではないか、とか考えている人はいないのでしょうか。
以前に日の丸についてK県で教員をする知人と話をした時に、彼が臭いものにはふたをすればそれでいいのか、といったことを思い出して・・・書く。
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 この問いかけは、「れんこん」から、次のような意見が出てくるのを見透かしていたかのようでした。
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《れんこん》 Subject: 日の丸と君が代
Date : 9:28pm 9/ 8/91 Author: MITEC (MITEC)
       ### 略 ###
 私は、日の丸も、君が代も大好きです。なぜならば、日本が好きで、親、祖母、祖父、先祖が好きで、世界が好きで、地球が、宇宙が好きだからです。日の丸、君が代は、国旗、国歌、なので、好きなのです。家紋は、家の紋だから、校歌は、学校の歌だから好きなのです。(^^;)

 日の丸と、君が代をなくせば、罪は、過ちは、許してくれるのでしょうか?
あまいと私は思います。もし、別の国旗、国歌が出来たとしても、それが、日の丸、君が代の変わったもの、すなわち、日本のものであるとわかれば、国歌、国旗と同じ様に思うのでは、ともすると、表面だけ変える、卑怯な国とおもわれるのでは、?

 私は、日の丸や、君が代から逃げずに、その悲しみを日の丸や君が代から、感じさせないように努力すべきだと思っています。楽ではないでしょうが
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 MITECさんのこのメッセージが呼び水になったのか、「れんこん」からもメッセージが少しだけ出てきました。
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《れんこん》 Subject: re: 日の丸と君が代
Date:11:51pm 9/ 8/91 Author: KINK (Kink)
       ### 略 ###
確かに、ただかえればいいというものではないと思います。そうではなく、侵略と人民抑圧として使われた日の丸や君が代を何の反省もなく使うということは、侵略や人民抑圧を反省していないということなのです。ただ単に旗や歌の問題ではないのです。

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《れんこん》
Subject: またもやMITECさんのレスみたいに
Bytes: 1415 Date : 12:20am 9/ 9/91 Author: GENESIS (胞子界)
       ### 略 ###
私は日本がきらいで、君が代とか国旗の根底に流れている思想のようなものがきらいなので(受け入れることができない)そういうものはないほうがいいかなあとおもっている左翼な人です。(^^;

ただ、諸外国からみれば過ちを犯したのは日本でトレードマークがゆるせんとかいろいろあるとおもうのですよね。くわしくわわからん&めんどうなのでかけませんけど。

 日の丸はなくても罪は謝罪できるし、国歌によって国民性を主張することの方が私にしてみれば形式主義の真骨頂、表面だけ日本人で中身はアメリカ人よりアメリカ人している国籍不明の人種みたいでやです。

 宇宙も地球も好きですけど、腐った世界は好きじゃないしそれにだらしなくぶらさがっているような国々には愛想もつきているわけで、先祖は好きだけどすでにこの世にはいないからどうしようもないでしょう。(馬鹿者)
       ### 略 ###
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 れんこんネットのアンケートでは、「日の丸、君が代」に関しては、肯定派が過半数となっています。

 「日の丸、君が代」の問題って、普段あまり日常会話の中に持ってきて問題にしようとすることってありませんよね。特に、れんこんにアクセスしているような人は、ネット上でいきなり議論が始まっても語れる言葉を持ってないのかもしれませんね。
 そういう状況のせいか、れんこんではMITECさんが唯一意見を出してくれただけで、他に過半数いるはずの人達の意見は見られませんでした。

 もう少し、「れんこん」のいろいろな人達から意見が欲しかったなぁー、というのは実感です。

 「てだこ」から届いたメッセージを読み飛ばさないで、少しでもいいからこれらのメッセージに目を通して下さい。と「れんこん」のみんなにお願いしておきます。

 今回の、zukkunさんが行ってくれた「BBSてだこ」のメッセージの転載からは、本当にたくさんのことが学べました。
 zukkunさんならびに「BBSてだこ」のみなさん本当にありがとうございました。


chatの魅力

 びとこ
 睡眠不足になったのも、ニキビが増えたのも、電話代が63000円になって親に怒られたのも、肩凝りが取れないのも、みんな私が悪いのよ。いいえ、あなたも悪いのよ。罪作りなあなたの名前、それはCHATなのでした。

 まず、CHATと言うものを知らない方のためにちょっと説明しますと、英語で雑談を意味する言葉で、パソコン通信を使ってリアルタイムに会話することです。同時に複数の人と、画面とキーボードで気楽なおしゃべりが楽しめます。これでパソコン通信が病みつきになった人も少なくありません。私もその1人なのですから…。 私が通信を始めたのは、3月の終わりですが、CHATというものの素晴らしさを知ったのは4月初めでした。初めてCHATしたときは、とても緊張しましたね。突然画面に相手の打った文字が出てくるんだから。初めの頃は、タイプが遅くて、相手を結構待たせたりもしました。それも段々慣れてきて「CHATってなんて面白いのかしらウフフ」と思い 始めた頃、私はCHATの魅力に取りつかれてしまい、もーぉ抜けられなくなっていたのです。

 私のCHAT全盛期だった時期は、ほんとに通信のためだけに毎日過ごしてるといっても過言ではありませんでした。学校? あはあはははは…。行ってはいましたけどね…。行ってるだけだったかも…。今考えると、相当なやり過ぎでした。相手が見つかりさえすれば、次々「CHATしませんかー?」攻撃で引き摺り込んでましたもの。後は、徹夜CHATやら朝まで生CHATやら7時間CHATやら、異常なまでの執着でCHATしまくりました。しかし、それの相手もいるんですから、私だけではないんですよぉ。でも、それによって電話代に押し潰された方もいらっしゃいますけど…。こんなにやってたら、絶対並の電話代で済まされるわけないんですよね。我が家の電話代も、私が通信始める前は10000円強だった筈なのに、前述のように、莫大な金額の請求書が来てしまったわけです。

さすがにそれ以来、長時間CHATは慎んでます。今では、電話代の調節が自然にできるようになりましたけどね。 と、そのように通信のために毎日長時間費やしていたらば、他のことをする暇がありません。他のこと。それは何でしょう? そう、お勉強です。学生の間はずっとついて回る、お勉強なのです。私はこれが余り好きではありません。好きな人も少ないでしょうけど。今年、せっかく一生懸命勉強して、高校に入ったのに、CHATのお陰でちっとも勉強できませんでした。その結果はもうお分かりでしょう。思わずあの瞬間、通知表を丸めて捨てたい衝動にかられました。それ程までに賛嘆たる有様だったのです。今は、一応勉強してますね。来年も1年生では困っちゃいます。とはいっても、これを書いている今、テスト2日前だったりしますが。 やっぱり人間一度は修羅場を経験しないと…って、したくないって? 私は経験しないとできなかったのよしくしく。まあ、人生は経験ですね。一回失敗すれば、次からは気をつけようって思えるから、大丈夫でしょう。同じ過ちを繰り返すのはいけません。私は幸い、繰り返すことなくここまでやってきています。

 ここまで失敗して失ったことばかり書いてきましたが、何も、それがすべてではないのです。いや、そんなことは微々たることだったと言い切っても…良くないか。うーむ。まー、それはそれで大変だったことだけど、それも忘れさせてくれるくらいの良いこともあるわけです。 CHATしてて何が一番楽しいかって言えば、どこの何をしているいくつの誰かも知らない人と、いろんなおしゃべりができることですね。って書くとちょっと妖しげだけど、そんなことないです。まあ、たまにはモラルのない失礼な奴もいますけど。たまにはですから。そう、だから、CHATが切っ掛けで仲良くなった人は大勢います。年齢も職業も、違う人が多いけど、それでも共通の趣味を持っていると言うことで、仲良くなれちゃうんですよね。よって、友好範囲も広がりました。そんなとき、通信やっててほんとに良かったなぁって思えるのです。人生悪いことばっかりじゃないななんて、段々誇張されてくると。あはは、困ったもんですね。まー、人生楽しいのが一番です。じーんせいはワンツーパンチ。何言ってるんでしょう。気にしないでください。

 と、訳の分からぬ結論に達したわけですが、ほんとにCHATはやり始めるとやめられないので、これからやろうと思ってる方、最近やり始めた方、私のような悲劇に陥ることなく、CHATの魅力に浸ってください。そして、オンラインで私と会ったときはぜひCHATしませう!
              xxx びとこ xxx


いささか個人的な話しで恐縮ですが、

 とんちゃん

 どうしてぼくが原発に反対するようになったのか、そして今後どう取り組むかなどを書かせてもらいます。

 ぼくが原発に反対するようになったのは、今から13年ほど前のことです。当時ぼくは入学したての大学生でした。小さい頃からSFや漫画を読みふけて、将来は科学者になろうなどと夢見て入学した一人です。その頃は「エネルギー」とか「核融合」が時代のキーワードでした。そんな影響もあったのでしょう、「核」や「素粒子」について勉強しようと思い物理学科に入学したのです。しかしそう思う反面、科学技術というものが公害を生み、枯れ葉剤を作り、核兵器を作り、必ずしも人類の幸福に結び付かない(ほとんど結び付かない)ということにも気がついてました。はたして「核エネルギー」が世間でいわれているように有り難いものなのか、ちょっと疑問に思ってました。
 残念ながら大学はその疑問に答えてくれませんでした。代わりに答えてくれたのは敦賀湾で生活をされている漁師の方々でした。何の気なしに見たドキュメント番組の中ではっきり「No」と教えられたのです。大学の先生でも判断できないことが、(多分)学歴のない敦賀の漁師さんには審判できたのです。こんなことがきっかけで原発に疑問を持ったのです。

 真実の声とは偉大なもので、漁師さんの声を聴いてから、次々と今まで知らなかったことが明らかになりました。人工的には分解することができない放射能の危険性、いつ事故があっても不思議でない原発の構造、被曝する労働者の存在、それらを無理矢理推進する経済原理、、、。知れば知るほどなにもできない無力な自分が情けなくなります。その思いが次の知識欲に転化し、さらに事実を知り苛立ちが頭の中をかけまわります。そんなときTMIの事故がありました。事故は待ってくれません。
 それがきっかけで最初の行動が始まりました。仲間を作らなければ。まずは身近な人にかたっぱしから原発の危険性を話し始めたのです。身近な人だけでは限界がありますから、それっぽいサークルにも入りました。おかげで確実に人はぼくを反原発と見てくれるようになりました。そのため原発に近い土地柄のせいもあってか毛嫌いされたり、排除される機会も増えました。しかしそれがかえって次のエネルギになって、さらに頑張れたように思います。
 そんなことをやってるうちにレジNさんとか、多くの仲間、反原発を理解してくれる先生に出会えて、ようやく運動らしきものができるようになりました。始めはビラを1枚まくのにも抵抗がありましたが、やがてビラまき、看板、ポスターなんかは朝飯前になりました。この頃が一番行動できた時期です。

 次に働き始めてから近況までですが、働き始めてからは、いつも心の片隅には反原発があるのだけれど、なかなか行動に結びつけてないという状況が続いてます。ここでよけいな説明は不要です。誰もが「仕事」を理由に他を排除し、その結果「仕事」中心に物事を進めるようになるのです。そのシステムに入り込むとなかなか抜け出れず、社会に出てからはこの鎖が切れるかどうかが、運動を続けれるかどうかのポイントだと思います。
 で、この症候群にやられて中期症状になると、例えば学生時代に共に運動したレジNさんがただの「技術屋レジN」に見えたり、エアコンを買ったために安易に電気の容量を増やしたりするようになるのです。やがて重傷になると反原発も徐々に影をひそめていき、どうでもよくなるのです。ちなみにぼくの場合たまに中期症状が出ますのであせってます。

 さて、ぼくが原発に反対する理由は何かということでした。それは、「原発が危険だ」とか、「子供に未来にきれいな地球を残したい」とかですが、もっと根本は何なのでしょうか。それは冒頭の漁師さんです。「強権者の抑圧に屈せず闘う人を放っておけない」ということです。これは人間なら誰しも共感することだと思います。
 そして今なぜ運動ができていないかというと、この心が欠如しているからです。仕事埋没症候群が、共に運動した友人を「技術屋」に、反原発を闘う漁師さんを「他人」に変えてしまったのです。友人や漁師さんのなかに「闘う姿」を見出せないからなのです。
 幸いぼくの場合中期症状の出始めで、そこまでは症状が進んでませんでした。今になってあわてて思考パターンを修正中です。といってもやっぱり仕事もあるので、頭の切り替えをうまくやって切り抜けようと思っています(虫が良すぎる?)。
 ということで一気に今後の取り組み方までいきますが、「何でも手伝いますからどんどん使ってください」と、とりあえず大風呂敷を広げときます。


Vanguradのさいえんすえっせい

 Vanguard

 れんこんネットでは以前から「科学」や「技術」に関する論議がしばしば行われてきた。私は別に技術者でも研究者でもないが経済学という社会「科学」を学ぶ身としては捨て置けない話ではある。そこで慣れない話題ではあるけれども「科学」に関して素人の浅はかな雑感を綴ってみたいと思う。

■ 新しいかがく??
     科学という言葉は明治初年に伊藤博文たちのつくりだしたものらしい。学者が政治に口出しするのを疎ましく思い、学者には諸方面(百科)に分化した専門の学問をやらせて政治から遠ざけようという意味で最初は「百科の学」と呼ばれた。それが略されて「科学」となったそうだ。
「高等生徒ヲ訓導スルハ宜シク科学ニ進ムベクシテ、之ヲ政談ニ誘フベカラズ」(1879年9月伊藤博文上奏「教育議」)というふうにある。この言葉から学者を専門バカにし、技術を国力に結び付けやすくしようとした政治家の本音がチラリと見える。現在、日本の科学は国や大企業の下にハイテクと強く結び付き、世界一の金満日本を支えている。

その日本の科学が追い付き追い越せと目標にしていた西欧ではニューサイエンスというものが頭角をあらわし、急速に広まり支持されつつある。ニューサイエンスとは長い間現代社会の価値観を支配し続けてきた西欧合理主義、これまでの殆どの科学の基礎となったデカルト・ニュートン思想の限界を越えた科学として誕生した。もうすこし掘り下げるとテクノロジー(技術)ではなく哲学、宗教との結び付きを強め、途方もなく細分化された各分野を統合的に捉えようとしている科学で、今流行のエコロジー的視野にたった科学ともいわれている。

■ ものの見方が新しい!?
今までの科学はデカルト的世界観とニュートン物理学に影響され、それらを基礎としてきた。デカルトは自然を正確な数学法則に支配された完全な機械と捉え、ニュートンは時間と空間は絶対で同一不動であるという理論や万有引力の法則で、デカルトの自然観を強力にサポートしたとされる。これらの思想は複雑な現象を「機械」として捉え、基本的な要素を「部品」に還元する方法を科学的思考として一般化した。個々の独立した「部品」を細かくばらばらにし、その相互に作用する仕組みを理解する。そしてその「部品」の性質を探り、その性質から全体の性質を理解しようとする。これらの考え方は我々の社会や生活に科学的に考える事=デカルト的世界観とみなされる程浸透している。

これらの考えに基づいた科学はデカルト以後300年間、現象や物質を細かい部品に分解し、その部品を詳細に研究記述することに没頭してきたとみなす事もできる。気がついたら「科学」と呼ばれるものは「百科」どころかそれ以上に細分化され、国や企業の細分化にまで影響していた。科学の「機械化」は自然や人間の「機械化」をも強要、まるで自然が様々な利益集団に搾取されるための独立した「部品」から成り立っている様に説き、それらを操作し開発する事を「科学的」に正当化した。しかし「科学は我々を自然の支配者と所有者にし、幸福をもたらす」と信じていた現代社会は、自らが人類はおろか地球自身までも死においやろうとしている事に気づきはじめ「エコロジー」「環境問題」が急激に注目されるに至っている。

明らかに今の科学はデカルト・ニュートン思想に行き詰まりを感じ悶絶している。私が学んでいる経済学にしても経済のモデル化、理論化に腐心するあまり、社会や政治のモデルを組入れ現実を包括したアプローチができないでいる。いかなる経済理論を駆使しても株の暴落をピタリと予想できなかった、と皮肉られる始末。「部品」に固執するあまりに、その研究がとらえた世界観は非常に断片的で現実のほんの一面に過ぎなくなってきている。
経済学に限らず他の科学でも現実の一部分から全体を理解しようと固執する余りに現実から遊離している。そして今もなお「分裂」を続けている。まさに「学問のための学問」が横行し科学は不健康な状態と言ってよいのかもしれない。

一方ニューサイエンスはどのように現実を捉えているのか。ニューサイエンスでは部分から全体の性質を捉えることはできない、という視点から現実を見つめている。つまり統合された「全体」にたって全てを包み込むような「包括的」視点から世界を捉えようとしている。調度、特定の個人や団体、民族のことばかり考えていた時代から(たとえ建前であっても)世界や人類、果ては全地球でのことを考えなくては通用しなくなってきている現代の潮流に相通ずる。
よくよく考えてみると今までの悪い意味での個人主義や民族主義、企業や団体の利潤を追及する姿勢は、部分にとらわれるあまりに全体を見失い迷走する科学の現状とよく似ている。つまり現在の科学の行き詰まりが、それらを基礎に発展してきた西欧文化の行き詰まりを象徴しているように見え、それを乗り越えようと必然的に視点の転換が行われているのだろう。その転換がニューサイエンスやエコロジーとして現われているように思える。

 「エコロジー」の視点はまさに包括的な視点だと思う。その視点は無論今までの科学に立脚したものではなく、全体をひとつの生き物と考えている。地球を女神ガイアになぞらえ一つの生き物とする「ガイア仮説」などはその典型だろう。自然を世界を「機械」ではなく「生物」として捉える視点。部分が有機的に絡まって決して一部分のみで推し量ることのできないという世界観。ニューサイエンスは理論的に「エコロジー」の視点を確固たるものにする新しい力になっており、将来関連した運動をリードしながら更に発展するだろう。

■ WEST Meets EAST. Then.....
興味深いことにニューサイエンスを担う多くの知識人が、東洋思想を積極的に取り入れようとしている。ニューサイエンスの旗手として有名な物理学者のフリッチョフ=カプラは中国の「易経」を引き陰陽五行の考え方を巧みに取り入れている。彼は西洋文化の誤りを次のように指摘している。
「中国の知慧に従えば、西洋文化が追い求めている価値それ自体には、どれひとつとして本質的に悪いものはない。しかしそれらを一方の極から切り離し、陽(筆者注:男性的、積極的、合理的なもの)に焦点をあて、陽に道徳的価値や政治的な力を与えてきたことが、今日の悲しむべき事態を引き起こしたのである。」つまり男性的、合理的、積極的でない物、いわゆる女性的、直感的、受動的なものを非常にないがしろにしてきた点に誤りがあると言う。カプラの東洋的思想にたった諸理論は次回に詳しく述べることにするが、カプラに限らずニューサイエンスの潮流として、「自然と同化する」「相対する二極の物の調和のとれた共存」など東洋独特の思想が注目されている。この新しい科学が今までの歩みを全く否定・排除し競合するのではなく、調和と共存が指向されていることが何にも増して明るい希望を私に与えてくれる。

しかしながら、この様なニューサイエンスの東洋思想との結び付きは、こと東洋・日本においてかなり批判的に受け取られているらしい。「西欧合理主義を越える為に考えた場合『西がだめなら東があるさ』とうまくいきますかね?」と、かなり冷ややかな声もある。西欧合理主義に慣れてしまった我々の頭では直感を重視したり東洋思想を支持するニューサイエンスの傾向が、神秘的で呪術めいたものに思えてくるのは否めない。だがニューサイエンスは単に「東より」とも「神秘主義的」とも評される物ではなく、今までの極端に片寄った物の見方(認識)を正してくれるものだと私は信じている。

「エコロジー」運動とニューサイエンスの勢いは増すばかりで、一過性のブームではなくなってしまった。未だ昔の西欧の姿を追い求め、ハイテクばかりをもてはやす日本の科学が政治同様、国際的に置き去りにされ取り返しのつかないことになりはしないかとも案じてしまう。ニュートン・デカルトの幻影を追いかけている「専門バカ」(決して侮蔑の意はない)達が政治・企業バカに踊らされて、幻影を捨てつつある西欧が注目している足元の宝を足蹴にしてしまわないだろうか。非力で浅学な私はそうならないよう祈るのみである(素人のいらない心配かもしれないが……)。

中村 博一(Vanguard) ASCII-NETpcs:pcs37722
Nifty-Serve:HAH00242 Rencon-Net :Vanguard


「ファジィ」ってなぁに  「第2回」

 Sach

 昔々、ある所の、誰も知らないほどの山奥に、おじいさんとおばあさんが住んでいました。
 ある日、おばあさんは川へ洗濯に行きました。すると、川上から大きな桃がどんぶらこ~どんぶらこ~と流れて・・・行きました。

「あんれまぁ!おっきい桃だこと~。」

 おばあさんはとてものんきだったのです。早速、おばあさんはこの事をおじいさんに話しました。すると・・・

「~と、いう事は・・・もっと川上へ行けば大きな桃の群集地があるはずだべ!」

 おじいさんはとても欲張りだったのです。翌日おじいさんは桃を採りに川上へと登って行きました。

「気を付けていってきなされやぁ。」

「たくさん採ってくるだ。町で売れば大金持ちだべ。」

 しかし、一人では一個が限界でした。

「一生の不覚!!!」

 取り合えず二人は、桃を食べてみることにしました。すると・・・ポンという音とともに中からとってもかわいいかわいい女の子が飛び出してきました。

「おおっ、包丁を入れる前に飛び出てきただ!」

「身の危険を感じたんでねえべか?」

 なぜ・・・男の子じゃないかって?それはね、男の子の桃はおばあさんが最初に流してしまったからなんですよ。
 そして、この女の子は「桃子」と名付けられ、よく食べ、よく遊び、すくすくと成長していきました。
・・・おじいさん、おばあさんの老後の貯えを食いつぶすほどに・・・おじいさんは思いました。

「あれ以上、桃を採らなくてよかっただ!」

 という事は、他にもゴロゴロあったに違いありませんね・・・
 さて、桃子も大分成長したある日のこと・・・おじいさんが町から、「ふぁじぃ・洗濯機」というものを買ってきました。

「今、町ではこんなものが流行ってるだべ!」

 おじいさんは、新しい物好きだったのです。

「おじいさん、またこんな無駄使いをして・・・それに、わたしゃこんなハイカラなもの使えないだよ。」

「それなら大丈夫だべ!まだ金をはらってねえから、店のおやじがついてきてるだ!」

「おじいさん、早くお金はらってくださいよぉ。」

 桃子にとって、おじいさん、おばあさん以外の人間を見たのは初めてでした。

「ねぇ、ふぁじぃ・洗濯機の”ふぁじぃ”って何なの?ふぁじぃさんって人が造ったの?」

「ふぁじぃってのは”羽毛のような””境界がはっきりしない”という意味から来てるんだよ。そこから、曖昧って言葉にしたんだ。」

「それじゃ、これは曖昧な洗濯機なの?」

「詳しくは、”放射性れんこん Vol.4”を見てごらん!」

 桃子はしばらく放射性れんこんを見ていました。

「わかったかい?」

「・・・・・」

 桃子は字が読めなかったのです。結局おやじは説明をしてあげました。

「今度こそ、わかったかい?」

「・・・うん・・・質問していい?」

「私にわかることなら。」

「あのね、今までの方法でもっと細かく段階を分けて動かす機械と、ふぁじぃを組み込むのとではどんな違いが出てくるの?」

「今までの方法だと細かく段階を分けてといってもどこでそれを切り替えるかなんてのを調べたりするのが大変なんだよね。ふぁじぃだと熟練者の知識を載せるということで、その手間が少なくなるんだよ。まぁ、より柔軟性があるってことかな。省えねるぎぃを実現できた、ということも聞くしね。」

「それじゃぁ、ふぁじぃ理論はまだ完全じゃないってどこが完全じゃないの?」

「私は制御についてしか判らないけれど、安定性についての証明が出来てないんだよ。数学的な解析方法がまだ確立されていないからなんだよね。これからどんどんその様な研究結果が発表されていくんじゃないかな。まぁ、そんなものがなくても実際にやってみると、簡単にうまくいってしまうから、次々といろんな製品が出てくるだろうけどね。」

「ふぁじぃってのは、おじちゃん達を儲けさせるためにあるものなの?」

「う~ん、桃子ちゃんもきついねぇ。ふぁじぃの良いところは、人間が機械に合わせるのではなく、機械に人間の感覚を理解させることが出来るということなんだ。つまりね、人間が人間らしく機械を使ってやることが出来るようになるんだよ。」

 桃子は持ち前の好奇心に任せて、その日夜遅くまで様々な質問を浴びせたのでした。そして次の日・・・

「じゃぁ、実際に洗濯してみるだ。ゴトンゴトン・・・んっ?あんまりきれいになってないんだども?」

「あれっ?変だなぁ。ちょっと検査してみますね。・・・これはちょっとせんさぁがいかれてるみたいですねぇ。」

「ちゃんと動くだに、そのせんさぁってのがいかれてしまうとうまく洗えないのかえ?」

「ある程度までなら曖昧な入力でも大丈夫なんですけど、まったく誤った入力になってしまうとだめなんですよ。」

「こんなうまく洗えんものに金ははらえん!いらんから持って帰ってくれんかの。」

「えっ、そんなぁ。」

「桃子、おじさん帰るって言ってるから、洗濯機といっしょに川に流してあげなさい。」

「は~い。」

「せめて、きび団子でも持って行くかね?」

 ザップーン・・・店のおやじはきび団子を持ち、洗濯機に乗って川をどんぶらこ~どんぶらこ~と流れて行きました。

「おじちゃーん、また来てねぇ。」

「二度と来るかぁ~~~」

 その後、店のおやじが洗濯機太郎と呼ばれ、鬼退治に行ったかどうか定かではありません。


《夢の話し》

 さたちゃん

 えーと。今回は夢の話しをしてみたいと思います。今回はねた切れでこんな風になってしまいましたが、次回までに面白い話しがあったら貯えておきますからね!

 では、行きます。

 夢には二種類有りますよね。将来の夢と、それから毎日寝るときに見る夢です。前者は、やはりその人々で度合は異なってくると思いますが大きな夢を夢見る人の方が光ってみえますね。やはり、これは大きな夢を持つべきでしょうねぇ(^^;)クラークさんも言っているではありませんか、「少年は大志を抱け!」(笑)抱いて損はありませんしね。さて、そんな話しはさておき、結構学校などで「あなたの夢はなんですか~?」といった具合に言わされることって有りますよね?どうも強引な気がしてならないのです。無理矢理その場凌ぎで作っているやつも多いのです。
それぐらいなら、言ってくれないほうがいい。ミエミエです。
それよりも、もっと沢山の事を経験する場を作り夢を作らせる方がいいのではないでしょうか。

 それから、後者の方になりますが、まずは質問です。皆さんは夢を見ますか?生まれてからまったく見たことがない、なんて言う人はいませんよね?それではこの文章の意味がなくなってしまいます~(^^;)寝る間に見る夢というのは、結構その人の潜在的能力を表している場合が多いんだそうです。私は、空を飛ぶ夢とか、一人だけ家族においていかれる夢とか、映画のノリで他人をぶん殴っている夢とかです。これも潜在的能力かと思うとぞっとするのですが(冷汗)

 この話しは、学校の他の友達がスピーチした話しを「おお、これは」と思って取りあげてみたんですけど、前者の方は付けたしです。自分としても大いに共感できるところが多かったのです。まだ人間は未開択の部分がおおいですね~。

 えと、非常に少なくて恐縮なのですが、ここ辺りで終わりにさせていただきます。えーと、感想はれんこんの私までメールか、事務局あてにお葉書でお願いします。(いないでしょうけど…(笑))


放射能でぇたぁお料理きょ~しつ
れんこんプロジェクト進行状況言い訳篇

 受験生はたくん

 1号2号のあと、半年もお休みしてました「放射能でぇたぁお料理きょ~しつ」ですが、なんとか復活します。
 さて、まだ「れんこんプロジェクト」を知らない人もいるでしょうから、その説明からしましょうか。

■れんこんプロジェクトとは
 れんこんネットを開いた真の、というか、最初の目的は、実は「放射能データを集結するネットを作ろう」というものだったんです。
 どういう事かと言うと、放射線を検出する「ガイガーカウンター」と「モデム」とを連結させた「れんこん」を作って全国にばらまこう、というのが「れんこんプロジェクト」。
 その「れんこん」のモデムは、一ヶ月に一回、自動的にれんこんネットに通報します。また、異常な放射能を検出したら、緊急に通報したりもします。そのために「れんこんネット」はあるのです。
 え?そんなの知らなかった?はっはっは。じゃ知って下さい(^_^)。

■今どのへんまで進んでるのか
 で、今、その「れんこんプロジェクト」はどうなっているかというと、一応ちゃんと?進んでるんです。はい。
 既に、北海道の福島さん、金沢のKUMAさん東京のENZORさん、TaDaPaPaさん、根暗一郎さん、埼玉のアオサギさん、下関のペリパトスさんに送りました。
 そして、今の所、ずっと前からテストをお願いしている三重は芦浜のzippさんと、下関のペリパトスさんからの定期自動通報が届いています。
 そうです。ノロノロと、ではありますが(^_^;)ちゃんと進んでるんですね。
 え?福島さんとかKUMAさん、アオサギさんENZORさんTaDaPaPaさん根暗さんのデータはどうしたんだって?さぁ~~そこらへん色々、個人的な理由でまだ箱を開けてない(笑)とか仕事が鬼のように忙しい、とか、子供が生まれる、とか、「れんこん」の調子が悪い、とか、いろいろあるようです。(^^;)
 下関のペリパトスさんからの自動通報はちゃんと届いているわけで、ま、技術的には問題が無いということが分かって、まず一安心といった所です。というわけで、これから、ぞくぞくと??出荷していく「予定」です。はい。

■さて、肝心の放射能のデーターです
 さてさて、半年も掲載してなかったわけで、その間のデータがたまってます。
 まず、三重県の、芦浜の近くの山奥に住んでるzippさんの「れんこん」のデータから。

[1/27~2/27]
    11,11,10,11,11,11,11,11,11,11,11
    11,11,11,11,11,11,11,11,11,11,11
    11,11,11,11,11,11,10,11,11,11
 さてさて、実は、2月9日はかの有名な美浜原発2号炉の事故があったわけですが、三重ではその影響は「特には」無い「よう」です。  しかし、「れんこん」のガイガーカウンターはそのデータによって安心できるほど精密には計れません。このデータとは裏腹に、あの事故で大量の放射能が出たことが明らかになりつつあります。

[2/29~3/29]
    11,11,11,11,11,11,12,11,11,11,12
    11,12,12,11,11,11,11,11,11,11,12
    12,12,12,11,11,11, 0,11
 ゼロの日がありますが、ま、気にしないことにしましょう(笑)

[3/26~4/26]
    11,11, 0,11,12,11,12,11,11,11,11
    12,12,12,12,12,11,12,11,11,11,11
    11,11,11,11,11,11,11,11,11,11
 ちゃんとゼロの日は一致しますね(^_^)(笑)

[4/27~5/27]
    11,11,11,12,11,11,11,11,11,11,11
    11,11,12,12,11,12,12,11,11,11,11
    11,11,12,12,12,11,12,12,12
 実はこの月は、朝鮮民主主義人民共和国で大きな核事故があったんじゃないか?という情報があり、心配されましたが、特にデータの上では変化はありませんね。今から考えると、あれはIAEAの核査察を受け入れさせるための、情報操作だったんじゃないでしょうか。

[5/28~6/28]
    11,11,11,11,11,11,11,11,11,11,11
    11,11,11,11,11,11,11,11,11,11,12
    11,11,11,11,11,10,10,10,11
 おっと、この月は「12」が異様に少ないですね。暖かいとカウントが減っていくのだろうか???(なんか前は、寒いとカウントが減るのか?とか書いたような気がするけど気にしない~~)

■自動で送られてきたデータも一緒に
 さて、ここからはzippさんのデータと、下関のペリパトスさんのデータの2本立てです。

[6/27~7/27](芦浜zipp)
    10,11,11,11,12,11,11,11,11,11,11
    11,11,11,11,11,11,11,11,12,11,11
    11,11,11,11,11,11,12,11,11
[7/1~8/1](下関ペリパトス【自動】)
    11,10,10,10,10,10,10,10,10,10,10
    10,10,10,10,10,10,10,11,10,10,10
    10,10,10,10,10,10,10,10,11,10
 ペリパトスさんのデータはzippさんのよりカウントが低いですね。これは下関が安全なんでしょ~か?それともガイガーカウンターの特性の違いかな??
 7月27日は、NOMさんVanguardさんレジNさんが東京から参加した、芦浜キャンプ初日でした。

[7/27~8/27](芦浜zipp)
    11,11,11,10,10,11,11,11,11,11,11
    11,11,11,11,12,11,11,11,11,12,11
    11,11,12,11,11,11,11,11,11,10
[8/1~9/1](下関ペリパトス【自動】)
    10,10,10,10,10,10,10,10,10,10,10
    10,10,10,10,10,10,10,10,10,10,10
    10,10,10,10,10,10,10,10,10,10
 どっひゃ~ペリパトスさんのデータはぜ~んぶ10!これは・・・う~ん信用していいんだかどうなんだか・・・。

[8/27~9/27](芦浜zipp)
    10,11,11,11,11,11,11,11,11,11,11
    11,12,11,11,11,11,11,11,11,11,11
    11,11,11,11,11,11,11,11,11,11
[9/1~10/1](下関ペリパトス【自動】)
    10,10,10,10,10,10,10,10,10,10,10
    10,10,10,10,10,10,10,10,10,10,10
    10,11,10,11,11,10,11,10,10
 お、なんとか11が出てきてますね。安心安心。
 ちなみに、大きな反対運動で電力会社を追い出していた芦浜では、原発推進派による古和浦漁協理事の改選請求が出されて臨時総会が開かれ、賛成(原発推進派)107票、反対(原発反対派)105票、無効2票という結果に。
 ギッリギリのところで、賛成が過半数にならず、なんとかかんとか推進派の請求は却下されましたが、zippさんによれば「票数通り、漁協はじまって以来のできごとです。推進派から出された議案が、原発反対派の票数を上回ったのは。」とのことで、本当に心配です。これからも芦浜にはいつも注目していきたいと思います。
 また夏には、芦浜キャンプが計画されるでしょう。来年は大勢で行きたいですネ。

■さぁて今後はどうなるか
 一応データがぼちぼち集まりはじめている「れんこんプロジェクト」ですが、今後は送れるようになった物からどしどし送ります。
 2年前から待っている方に全て送り終ったら、また次の計画をちゃんと立てたいと思います。
(モデムの2400bpsMNP5化や、既成のモデムとドッキングする方式にするか、など)

 来月は、北海道や金沢などのデータも紹介できるとよいのですが・・・(^_^) 福島さ~んKUMAさ~んENZORさんTaDaPaPaさんアオサギさん根暗さ~ん見てますか~~。なんとか設定だけでもしてくださいね~~(笑)