放射性れんこん Vol.9

1992.10.26発行


目次
  1. 芦浜キャンプ感想文大特集!(はたくん)
  2. 人間と海の交渉の歴史を物語る 「海の博物館」(河内丸)
  3. クロスワードパズル(OZA)
  4. 日野台高校 自由という名の幻想(加賀)
  5. 現場告白シリーズ 第一回 「うちの職場」(なすび)
  6. <介助>の体験から(「障がい者」と共に生きる社会を目指して)(KJ)
  7. バイクから自然環境(涼)
  8. 原発用語の基礎知識 その2:安全対策(McOtto)

 

※リンクしていないものは、手書き、漫画などの為ホームページ上には
 掲載しておりません。
 ご覧になりたい方は放射性れんこんVol.9をご覧ください。


芦浜キャンプ感想文大特集!

 [はたくん]

 れんこんネット恒例、夏の芦浜キャンプ。今年は、現地側コーヂネーターzipp.さん、柴原さん、そして「社長」さんの熱意で、いつもよりおっきな規模で呼びかけをして、なぁんと全国から72人もの人たちが来て無人のプライベートビーチ「芦浜」にテントを張ったのでした。
 原発に狙われるほど文明から遠く離れ、自然がいっぱいの芦浜で、いったいみんなは何を考えたんでしょーか、ということで、いろんな人の感想文をまとめてみました。ちなみに感想文は全部あわせると、原稿用紙数百枚分にもなるので、大幅に、私の独断と偏見でカットしちゃいました。ごめんなさい。

■静岡県Sさん
 荒々しい海をみながら、「何もないところだ」といったら7才の娘が、「海も山もあるじゃん」と言った。なるほどネ、「何もない」という基準自体人間文化中心の発想なんだと思いました。
 内部事情は何も知らないけど、ただ感じたところでは、主催者が何の気おいもなく、かつ交流会をやろうとかいう感じもなく、何人集まるか なんて 考えてもいなかったようなところが、ついつい、イベントをやると、何かしなくてはとか 何人くらい来るかとか考えてしまう市民運動の常を脱していて、とても、私は好きでした。

■たかちほまる
 結局、私にとって芦浜キャンプとは一体何だったのか。原発建設も、それに対する漁民の方々の抵抗も、また抵抗に対する中電の策略も何も知らない若者が、ただ海が青いからという理由でやってきて浜で遊んでいっただけではなかろうか。そうかもしれない。でも、それでもいいと思う。実際に芦浜を訪れてその美しさに心惹かれ、この自然を原発なんかで壊してはならないと思うなら。そう思う人が増えていくのなら。環境問題がどうこうと言いたいわけじゃない。
 ただ、この美しい海には、ボタン一つでなんでも出来る生活以上の価値があると思う。そう考えることが出来るならば、単なる物見遊山じゃない。
 そんな思いにむしばまれながら、顔の皮をめくる今日この頃です。

■アオサギ
 すでに他の人が語っているとおり、満月の光とそれを映しだす海と雲が織りなす光景は、もうなんと言うか・・・もしも海ガメが産卵しに浜にあがってくるのを目撃しようものなら、僕は浦島太郎になっていたわ、きっと。で、竜宮城でキンキンに冷えたビールを浴びるほど飲むのだ。あまり長居はできないとお姫さまにお別れのキスをして浜に戻ってみると、そこには朽ち果てた巨大な石棺が・・・あぁぁ。一瞬後僕はすべてを悟り、お土産にもらった箱を開ける。中にはなにやら灰のようなものが。
 数週間後、すっかり髪の抜けた僕は薄れゆく意識の中で映画「核分裂過程」の一場面を見ていた。
 あらあら、なんと恐ろしいことを核のだ。書くのだ。

■zipp  からだがホてってて眠れないので、キャンプに参加した人たちを思い浮かべながら数えてた。
 総数は72人。この中の最年少は、7カ月児で、最年長は…、歳を聞かなかった…(^^;。赤ちゃん他に1才児、2才児がいた)同伴で参加された方は大変だったと思う、実際大変だったろう。
 あそこに72人もいたとは!われながらビックリ!一応ぼくは、参加した人全員と話をしていると思う。赤ちゃんも含めて(赤ちゃんの場合は話するというより意志疎通だけど。)。
 参加したみんなありがとう!みんなでこのキャンプを過ごせたことを感謝します。
 スゴーイっ!ハプニングとか、オモロイこととか一杯あった。きっと誰かのMSGで語られることでしょう(^^;。

■阿月  報告が遅れたけど、皆さん心配してくれてたかな?というのも15日、浜の南端の岩場で思索にふけっていたところを、ものの見事に高波に襲われ、一つしかない眼鏡を海に奪い取られたからなのであった。ま、身体の方はなんとか奪われずに済んだので(結構蹂躙されたが・・・^^;)良かったことにしよう。てなわけで、なんとか明るいうちに帰り着きたいなということで、ちゃんと挨拶もしないですたこらさっさと出かけたのだが、なんと道路には昼間でも暗いトンネルというものがいっぱいあるのだな、これが。普段はそんなに意識しないのだけど。
 そう、普段、意識しないものをいっぱい思い出させてくれたのが芦浜キャンプだったということですね。満月の明るさ、雲の玄妙さ、星の数、我が肉体の衰え、冷えたビールのうまさ、清水の貴重さ・・・、どれもこれもとてもいい体験でした。お世話になった方々、どうもありがと。また、芦浜で会おうね!

■涼  -(8/15)あわや水難事故-
 岩場からテントの方に戻って来ると、なにやら騒がしい。何事かと聞くと、どうやら泳いでいて浜に戻れなくなったらしい。
 そうこうするうちに、社長が出てきて浮き輪にロープを結び付けて準備をする事になる。
 そこで出てきた正義のレジNさん。難なく波を乗り越えて救援に向かう。野生児の本領発揮か?たどり着いたレジNさんの浮き輪を全員で引っ張る。あともう少しと言うところでロープが切れた。と言うよりも結び目が切れたのだろう。しかし、そこを何とかこらえて救援成功!  「あの時はもうだめかと思った」とのレジNさんだが、これで一躍ヒーローになってしまった。ともあれ、無事でなによりです。

■浦和市 山下さん
 今回はカズを助けて頂いて、ほんまにありがとう。レジNさん、東洋医学のヒゲのおじちゃん、カズを助けようと、長~い木を持って波に走ってくれた社長さん、見てられなくてオロオロする私をきつく抱きしめていてくれた原子力資料情報室のサワイさん。zippさん、何とかパパさん、ピースネットに連載してるハタ君、その他名前もわからない人もたくさんいて。みんなありがと!おっと忘れてた。浜に上ったカズにお水を持って来てくれた大山さんにもありがとう。
 関西の人がけっこう来てたみたいで、ひさびさのあの言葉にふれるととても楽しくて、しあわせ。ほっぺたがゆるんでくる。

■ガサ子
 阿月さん、ちゃんと帰れてよかった。
 海難にあったカズさんたちは、心配のあまりにテントをわたしが背負って一緒に山道を帰った。半病人のカズは、山道で二回も吐きながらも無事、錦の里までたどりついた。
 1才半の桃子ちゃんも、にこにこ帰ったし。ふぅ。 お話ししたかった人は、たくさんいたけど、こんなとこまできてあわただしくするのもなんだなぁという気もして、なすがままにまかせた。また、いつか逢えるでしょう。
 なんか、とてもうれしかった。いろいろ。

■zipp
>なんか、とてもうれしかった。いろいろ。

 ぼくも一言で感想を云うとガサ子ちゃんが云った以上には云えねぇ。
 “なんか、とてもうれしかった。いろいろ。”
 あのキャンプでぼくは、すごーく一段と元気になってしまったよーだ(^^)。“ぐったりしてると電話掛けたのに、エラク元気じゃないの!”とか云われていたりする。そう、ワタシはあのキャンプで、消化不良さへ起こしかねないほどのイロイロなスゴイものを頂いたのだ。芦浜の自然からも人からも。オマケに中電さんからもね。(^^;。
 「それぞれが勝手にテキトーにやる」というのは、良かったのか悪かったのかは、わかんないけど、ぼくは統一したことはやりたかないので、将来的にも(^^;、それはやんない。けど、みんなが勝手に集まれる一つ場を設定できなかったのは、悔いが残っている。気軽にみんなが集まれるひとつ場を持てたらもっと良かった。
 ぼくは、「森の人」の池を挟んだ向いの海を見渡せる山側の林にハンモックを吊って寝そべってたり、山側の池添の道から水場に散歩したりしてたんだけど、蝶々、それもアゲハがたくさんいた!アブも一杯いて血をいっぱい吸われたけど(^^;「ここは蝶の道なんじゃない」と誰かはいっていたけど、「蝶の道」とはいったいなんぞや?と聞きそびれてしまった。芦浜の堤防の内側の潅木地帯、ログハウス周辺の杉林には、様々なアゲハが踊ってた。こんなに蝶がたくさんいるのは見たことがないほどだ。ウミガメもだけど、蝶もちょっと調べてみたいなぁ。  あの浜では、すでにウミガメの卵の産卵が確認されてました。場所はさやえんどうテントの西側です。また、別の場所では盗掘痕らしきものも発見されました。浜には卵の割られた(?)殻がいくつも見受けられました。その殻を盗掘の証拠として持ち帰た「女の子」(!?)もいます。
 実はぼくたちが芦浜に入る前日、芦浜のウミガメの調査が行なわれていたのです。その「女の子」も調査に加わった一人です。
 おぐさんが少しだけ云っているけど、へへへ(^^)…「芦浜・ウミガメぷろじぇくと」ってのを旗あげします(^^)。まぁあの皆サマが感動なされた芦浜で、テント生活をしたい人を募集します。基本的には来年春から夏秋の時期ですが、こういうものは、ノリなんで(^^;、とりあえずこれから秋にかけてコテ調べの準備とかもやりたいなぁとか思っています。ウミガメに限らず、蝶他の動植物の観察及び芦浜探検ですね。資金はゼロなんで、とりつくさない程度に芦浜池のシジミをとって錦で売ります(^^)。これで生活費はメドがたちます(芦浜で生活するのに金はいらないけどね)。
 カメラ・ビデヲとか扱いの得意な方とか動植物に造詣の深い人はナオいい。時間が有り余っている人とか、大学のサークル丸ごとで関与できる人他、思いのフカイ人、募集します。おいらは土日しか参加はできないけど(^^;。

■ヒラメchan
 私は日帰り荷物での低山歩きしかしたことがない町育ちの軟弱者だから、山道はきつかった。昔、実習で山を歩いたことはあったけど、それは休みたくなったら適当にその辺の動植物を指さして、「先生、あれは何ですか?」と言いさえすれば止まれるのだから楽なもんでした。  でも考えてみたら、別にzippさんと同じ速さで歩かなあかんことはないんよね。帰りはひふか堂の宿酔いを口実にチンタラ歩いたのできつくなかった。蟹さえ出なければ、素敵な山道です。
 れんこん組とはあんまり遊べなかった。社長ってどの人なのかもわからなかった。残念。「浜の人」テントもいくつかあったけど、私は旧知の「つわぶき一家」としか近所付き合いをしていなかった。「森の人」テントも、カズたちんとこくらいしか遊びに行かなかったっけ。  そや、れんこんといえば、1晩め、砂浜で座ってると、「図書委員」だの「クラス」だの、私にとっては死語に属するような語彙が会話に使用されてるのが聞こえてきて、どへー。はたくんを「はた先輩」と呼んでる奴もいた。
 池でシジミを採っていて出会ったFUYUKI君も、私が一応心臓周辺と頭はぬらさないように胸の下まで水に浸って網で静かに、しかし確実にすくってる横で、海パン姿で素潜りしては一個ずつ(!)拾ってくるのであった。その効率の悪さを彼はむしろ楽しんでいるようにも見えたっけ。ああ、若いってこーゆーことなのね、でもばしゃばしゃ暴れて私にまで水かけないでよね、私ゃなるべく体力消耗せずに食糧を沢山持って帰るのよ、やーん、冷たい、私もう帰る!と若い体力の前にあっさりと漁場を空け渡したのでありました。
 みんなの感想を読んでいて、月や雲の神秘的な姿についての記述が結構見られるので、私は安心しながら、嬉しい。だって、平常時にそんなことうっかり表現しようものなら笑われるかテキトーにあしらわれるのが普通やから、ずっと抑え込んで来たんやもの。
 それでも、天上の大広間を支える雲の柱だとか、座る巨大なラクダなどの一大サイケデリックアートを1晩めに見てしまった私はもうその抑えが効かなくなって、2日目は昼間からべらべらと愚にもつかぬ思い付きをしゃべり散らかしていたのでした。浜の人たち、さぞかし呆れていたことでしょう。信じて貰えるかどうか分かりませんが、私はしらふだったのよ。
 ま、会えなかったり余り話せなかった皆さん、また今度ね。文章同様まとまりのない人間ですので、いつか会えた時にはそのつもりで遊んでね。それじゃまた。

■ひふか堂
 久しぶりに持ったテントとかの入ったザックはほんまに重かった。zippさんのいうところの小学生の遠足道!でわたしゃ疲れ果ててしまったよ。その晩はほとんどな-んもする気がせず、ぼ-っとしてました。夕日のようなお月様、かたちをかえる雲、波、なみのおと、焚き火、雨。
 シジミとりはおもしろかった。池の底をなべですくうとじゃりや、砂にまじってひとつ、ふたつ、黒い宝石のようなシジミが現れる。目を凝らして池の底を見つめるとしじみが目に入ってくる。それを直接つかみとる。片身の時も多いけれど、おおきなしじみがつかめてうれしい。シジミの味噌汁はほんまにうまかった。
 ほかに芦浜でおいしかったもの…
 1.なんといってもまず、しじみです。ヒラメchanいうところのしじみのギリシャ風というのもおいしかったけど、やっぱり味噌汁がいいとわたしはおもう。(おいしいお味噌を持っていこうね。)次回は酒蒸しなんかもやってみたい。
 2.かさがい(だとおもう) おとなりのばくさんたちが取ってきてたのを少しだけ食べさせてもらった。磯の香りが強烈!かさがいごはんも美味だった。
 3.おさかな 芦浜の浜から投げ釣りをするつもりだったけど、台風で波が荒くて釣りにならなかった。というわけで、食べられず。次回にきたいしよう。(^_^;)やっぱり、外洋に面しているからでしょうねえ。波の静かなときも結構あるのかな>zippさん次回釣り道具持っていくかどうか考えてるんだけど。
 4.かいそう ヒラメchanがそのへんで拾ってきたものを味噌汁に入れたりして食べた。彼女はおいしいと言っていたが私はあんまりおいしいとはおもはなかった。
 ほかに、彼女は、かめのて汁、ふじつぼご飯という絶品?のメニューがあるそうなのでこれも次回に期待。
 僕はキャンプの経験は、殆ど山歩きの時のものなので、いつもこんろを使って、レトルトのカレーとかかんずめ、ラーメンとかという食事だったんだけど、今回、芦浜で素朴な味をいっぱい味あえてとてもよかった。最高の贅沢というかんじ。あんな食事をしていたら、からだにもいいだろうな-。
 お世話になった人達、どうもありがとうございました。

■とーち
 台風をはるか沖に迎えた芦浜では、しかし雲はうっすらと空にかかるのみで、月の光がすべての物を浮かびあがらせ、波の音がわずかな空気のすきまも埋め尽くし、おだやかな海の風が時間の進みを告げている。 海水につからない安全圏ぎりぎりまで波に近づくと、視界はすべて黒い空と白い波のみとなり、その中でなんどもなんども繰り返される波の消長は、いくら見ていても飽きることがない。動物のように「生」を感じさせる波達のなか、やや左前方には、満月が静かに止まっている。
 不思議に「きれい」とか「すばらしい」というふうにはそれほど思わなかった。もっと自然な感じ、新しいものを見つけたというより、忘れていたものを思い出した感じ。そうそう、こーだったんだよなぁー、という感じ。
 こんな簡単なことを忘れていたのは、どうしてだろう。ここにこなければ、思い出せなかったのは、どうしてだろう。つまり、私から、この記憶を消し去っていたのは何者なのだろうか。
 私の回りにかかっていた「もや」が晴れて見えたものによって、私は、怒るべき者を静かに見据えることができるのだ。

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芦浜にて              とーち 作詞・作曲
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わずか数日を ここで過ごしただけで
今までの僕とは 生まれ変わったような気がする
にごった雲から 月がでるように
きのうまで 僕達は 都会の雲にいた

言葉をもたない この海の さけびを僕は聴けるだろうか
言葉をもたない この山の いのちを僕は感じられるか

だれもいない浜に うちよせる波
動物たちの においのする山々
すばらしいと思ったあとで すごいとおもったあとで
あたりまえのものをなくした この国をなげいていた

言葉をもたない せせらぎが 語る声に気付いたか
言葉をもたない 海亀に 向かい合うこころを持ち得ているか

はるか昔から ここで幾人も月をみたように
これからも 私はここをおとずれる
そして この歌を 唄い続けるだろう
こころの錨を ここに下ろしたから

言葉ももたずに 僕達は この景色をわかちあう
言葉ももたずに 僕達は この浜で同じ時をむすびあう
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■横浜市 寺尾さん
あしがガクガクそれでも歩く。天国にたどりつくまで。
しじみの池で水浴びすれば、涼しい風も吹いてくる。
はるか離れた町まで、かついで戻るBKO部隊
まきを集めてたき火をしても、消してしまうぞ土用の大波。
きれいなチョウチョ、きれいな月。きれいな星に、きれいな海
やっと慣れた野生の生活。だけど三日でまた文明の中へ。
ん~。また来てみたい。
ぷらいべーとびーち、芦浜。
BKO部隊:Beer Keeping Operations
     (ビール買い出し部隊)
■京都市 Fさん
 とにかく気持ちの良いキャンプやった。
 原発、核燃のやって来る場所はどこもどこか似ている。人がそこで何か忘れていたものを思い出しほんの少しおみやげをもらってかえる---(本当は足跡さえ残さないようにして)---そんな場所にやって来る。人が手をつけてはいけない場所大切にしたい場所という実感があった。
 何か大げさにしなくてもまた芦浜にいこうね。と思ってしまう。またいこうね。
 行った人は芦浜に原発はイヤダと思うやろうし、芦浜でイヤなものはどこでもイヤダと思えるかもしれない。海亀さんのジャマにならぬよういつでも海亀さんが来れるよう原発を止めようね!

 さぁ、これを読んで行きたくなったひとは、今すぐ行こう!ついでに、このあとに河内丸さんが書いている「海の博物館」もぜったいオススメ。
 お正月明けには、芦浜に漁業権を持ってる「古和浦漁協」の総会があって、どうやら賛成派が多数を締めそうだとか…。
 今後の芦浜の情報、古和浦漁協の情報は、パソコン通信上ではもちろん、この「放射性れんこん」でもフォローしていく予定です。
(はたくん)


人間と海の交渉の歴史を物語る
「海の博物館」

 [河内丸]

 

 たとえば、海のことを知りたい、と思うとき、人はどこへ行けばいいだろうか?
 「水族館」。うーむ。ただ海の生物が陳列してあるだけなのねー。いったい海と人間とはどういう関係であったのか、そして、人間が海から得たものは?
 海と人間との交渉は、恐らく人類の有史以前、つまり文献が残っているよりはるかに前からのことにちがいない。ところが「水族館」と呼ばれるところへ行っても、そんなことはほとんど教えてくれないようなところが多いように思う。普段見慣れぬ珍しい生物が幅をきかせていたり、ペットのように飼い慣らしたイルカのショウがあったりするのが関の山。それはそれでいい、というふうに思ったりもするけど、本当にそれはそれでいいものなのか?
 海というものを、そのように人間の外側の世界、というふうな捉え方で見る対象として扱う、その「まなざし」、そしてその視点というものが、実はとても胡散(うさん)臭いのかもしれない、というふうに思いはじめた。それはひょっとすると、ずいぶん不遜(ふそん)なことなのではないのか。そう考えるきっかけになったのが、ぼくの今回の「海の博物館」行きだったように思う。

□□ そもそもは芦浜キャンプのおまけだった □□

 「ヒロ(zipp)さんが呼びかけている芦浜キャンプ、あたしも行く」という電話がマサコお姐サマからあったのは、確か、ぼくがキャンプ参加意思の表明後だったっけねー。まだせいぜい満1歳の娘を連れて行くぞ、と言い張るお姐サマがいて、それならば荷物持ちとか、ぼくの出来るお手伝いをせめてやらなくちゃねー、とその時は思ったのだったように思う。
 しばらくして、また電話。「どうせ行くんだったら前日に行って、途中、鳥羽の『海の博物館』を見に行きたい」と言うお姐サマの声。
 なにぃー、水族館に行きたいってわけー。なにそれー。と答えたら、お姐サマ曰く、「あなた、知らないのー? SOS運動を。Save The Sea って言って有名なのよー。そのSOS運動の本部にもなっている、人間と海との歴史を見せる博物館なのよー。水族館とは違うんだから」。
 むむむ。どっかで聞いたことはあるな、というのが正直なところ。でもね、鳥羽では圧倒的に有名なのが『鳥羽の水族館』なのね。ぼく(河内丸)なんかは小学校のときの修学旅行で、水族館が巡回路になっていて、当時イルカのショウを見せられたのを覚えているくらいだもの。鳥羽周辺の観光といえば、この水族館と伊勢神宮、それから真珠を養殖している英虞湾(あごわん)。現在はどうなのか知らないけれど、ぼくが小学生だった頃は、伊勢・志摩・鳥羽周辺コース、というのが当時の京阪神の小学校の修学旅行のポピュラーな行き先だったと記憶しているのね。だって、後年、伊勢神宮や鳥羽の水族館は小学校の時行った、という話をよく聞いたもの。
 だいいち、Save The Seaっていうんじゃ、SOSじゃなくてSTSじゃないのー、そりゃ半信半疑にもなるわぃ。というのがぼくの正直な第一印象だったのだ。Save Our Sea というのが正式な名称だ、と知るのはしばらく後になってからだった。
 でも、ほかならぬzippさんも、その博物館を知っていると、すぐそのあとに第三世界ネットワーキングのボードで書いてくれた。まぁ、そういうことならば、寄ってみるのも何か話のタネぐらいにはなるわな、ということで行くことにしたわけ。ただ、マサコお姐サマが「行きたい」といい、zippさんの知り合いがやっているというその「博物館」なるもの。だったらそれは、一体どんな辺鄙(へんぴ)なところにあって、どんな掘っ立て小屋なのかにゃ<^^;とも思ったりしてね。
 まあ、マサコお姐サマの赤んぼの生まれて初めての旅行だし、突然キャンプに連れていく前に、日程に余裕を持たせて赤んぼの体調とか様子をみるために寄ってみるのもいいのかな、という別の思いもあって、まあ行ってみるのも悪くはなかろう、という程度の気持ちもあって、博物館行きを決めたのだった。

□□ 海の博物館ってどう行けばいい? □□

 観光ガイドブックをいろいろ漁って、「海の博物館」がどこにあるのか事前に調べようとしてみたのね。何種類ものガイドブックを本屋で立ち読みしたあげく、載っていたのはたった一冊。それも何の説明文もなくて、案内地図の中にその文字列が載っているだけ。それもどこにあるのかさっぱりわからない。うーん、こりゃ駄目だ。思った通り、よほどマイナーで無名の博物館なのだな、と目星をつける。だってそう思うのも無理はないでしょう?
 鳥羽の駅に到着して、博物館へのバスが出ているということは聞いていたけれど、赤んぼ連れてのバス探しも面倒。そこでタクシーで行くことにした。その時のぼくの気持ちを察してもらえる? 「海の博物館? そんなん知りまへんでー」と言われたらどうしようか、とかそればっかり気にして……。まあ、5~6台当たってみることは覚悟しましたな。
 ところがどっこい、1台目のクルマで「海の博物館へ」と言うと、すんなり「はい」の返事<^^;。あれ? 調子が狂ったな、てなもんであった。
 恐る恐る運転手に聞いてみる。「海の博物館に行く人はいるんですか?」。運転手サン答えて曰く「結構行く人はいますよ、家族連れも結構あるし」。へぇ! そりゃ知らなんだ!!
 ホッとしたのもつかのま、車は駅からすぐそばの「水族館」を越えて鳥羽の町並みを出て、山の中に入っていく。当然車のメーターも気になる。もっと気になるのは、いったいどれだけ町から離れてしまうのか、ということもあったのね。15分ほどドライヴすると、なんと車は有料道路に入る。ひぇー、どこまで連れて行かれるのじゃー。

□□ な、なんと、実は本格的な「博物館」だった □□

 実はそんな心配は無用であった<^^>。5分もしないうちに、博物館への曲がり角に着き、博物館敷地内のヘアピン・カーヴを通って博物館入口へ。もう、おどろきましたねぇ。掘っ立て小屋などとは大違い。大型体育館ほどもの大展示棟が3つも4つも立ち並び、デザインもユニーク。中に入ってみると、夥(おびただ)しい実物資料が、人間と海の交渉の歴史を物語るのであった。また、建物は中に入るとわかるのだけれど、天井や外壁の木製の骨組みが、ちょうど船をさかさにしたような構造になっているのだ。聞けばこの木は三重県産の杉板らしい。とても凝った構造。
 古墳跡地を利用した小公園や池、芝生の広場などが広がり、敷地面積も想像よりはるかに広大なのに、もうただただ驚くばかり。そして、ラッキーなことに、ぼくらが行ったときには、普段申し込み制になっている舟の収蔵庫が公開されていたこと。この収蔵庫、凝りに凝ったつくりになっていて、内装などは、実物の木造舟を永久保存を目指して温度・湿度を一定に保つよう細心の注意が払われている。床が粘土になっていて、湿度が下がり過ぎないようになっているが、その空調システムで電気を使うのは換気扇のみ、それ以外は建物の構造で空調を実現するように工夫されているのね。だから潮風が強い時とかには、塩害などを防ぐために閉め切って入れてもらえないらしい<^^;。いやぁ、すげーラッキーだった。

□□ 海の博物館訪問以来考え続けていること □□

 赤んぼ同伴ということもあるし、飽きっぽいガサ子同伴ということもある。閉館までの数時間では、丹念に見られるものではない。だから感想は簡単に書けない<^^;。と言って終ってしまうわけにはいかないし、全部を見たわけではないのだけれど、ぼくとしては、とても衝撃を受けたと言っておきたい。閉館までいたけれど、もう一度、今度は泊まりがけで一人で見にくることを誓って博物館を後にしたのだけれど、以来考え続けていることをいくつか書いてみたい。
 一つは、もう「豊饒の海」というのは、今は亡き過去のものではないのか、ということだ。思えば人類は有史以前から何種類もの生物を絶滅させてきた。とりわけ石油文明が発達したこの数十年間の間には、数え切れないほどの種を絶滅させてしまったことは想像に難くはない。博物館の展示によると伊勢・志摩・熊野の海では、「いくらでも湧いてくる」ほどの海の幸がとれたという。ほんの百年位の前のことだ。それが今や、細々と暮らしを立てる程度になってしまっている。海が毒物・有害物質のたまり場になって久しい。
 もう20年前にもなるだろうか、殺虫剤のDDTだかBHCだかの影響でアメリカの国鳥であるアメリカン・イーグルが急激に個体数を減らしているというテレビ報道を見た覚えがある。食物連鎖による生体濃縮、それも高濃縮によってアメリカン・イーグルの卵の殻が薄くなるため、孵化する個体が急激に減少しているからというのだ。
 これも昔の話だが、あまり農薬を使わなかったせいか都市近郊の田んぼでさえ、無数のさまざまな虫たちが、それこそウジャウジャと、なんだか気持ち悪くなるくらい沢山いたのを、ぼくの子ども時代の印象に強く焼き付いている。また、いまや、原子力発電所ができてしまった敦賀湾は、子どものころ京阪神の家族連れの海水浴場として賑わったものだが、当時ぼくが磯に行くと、これまたウジャウジャと、わけのわからない生物がウヨウヨいくらでもいた。
 ところが、近年は海水浴に行ったりしてもそういう光景にはとんとお目にかからないのだ。例外的に2年前、朝鮮の金剛山のふもとの海岸(海金剛と呼ばれている)に行くと、子どものころ見た磯の生物が沢山見られて、あーこんなだったなぁ、と思ったものだ。
 どうも、こういう現象は日本近海のほとんど全てにわたって起こっているような気がしてならない。例外的に沖縄の白保(あるいは北海道)などに、細々と以前の面影を残しているのみ、というのが実情ではないか。
 もっとわかりやすい例をあげてみよう。志摩・熊野には、その昔、毎年クジラの群れが沖を通ったという。そして、そのクジラは近在の漁村が総出で捕った。一頭捕れれば5浦7浦がその年は潤ったという話が展示の中に出ていた。ならば、とぼくは思うのだが、やはりそのクジラの群れが日本近海に再び現われるまでは捕鯨は禁止した方がよかろう。そうでないかぎり「捕鯨国の伝統」だの「捕鯨文化」などと言うべきではない、と思ったりするのだ。映画監督の大島渚さんは、京都大学在学中にクジラ・カツをよく食べ、その総量を計算するとだいたい鯨1頭ぶんくらいは食べたことになる、と言っていた。ふーん、そんなものか、と思ったりしたけれど、やはりそれは、ちょっと大変なことではなかったか、と思うのだ。彼は安くてウマかったから、と言っていたように思うが、何故そんなに安く食べられたのか。その、安さの中身(経済効率)に思いを馳せる必要はないのだろうか。クジラ獲りたきゃ、志摩沖にクジラの群れを再現してみろ、と言いたくなったりするのね。
 「豊饒の海」は、もはや昔日の面影すら、ない。
 もう一つ、失われた(だろう)漁民文化のこと。「湧く」がごとく獲れた魚を糧として生まれた文化のことだ。ぼくなんかは、日本は農耕文化だと思っていた。農耕文化というのは排他的なところがある。それというのも、一定の面積から採れる農産物の量には限度があるということから来ている。ということは、一定の面積が養うことのできる人数には限りがあった、ということに他ならない。そしてその面積を潤す水の問題がいつも争いの種になった。水系をめぐる争い。これはどうしても排他的・排外的にならざるを得ない。よそ者は敵なのだ。
 そうでない文化、つまりよそ者であっても、一人でも多くの人が協力すれば、漁獲は上がる漁民文化も一方にはあったらしい。海の民の文化は、明らかに農民の文化とは違っている。そしてその文化の名残(なごり)は、たとえば古い結納の品々を見ると、わかってくる。これが海産物ばかりだったりする。驚いた。そして伊勢といえば伊勢神社。神社の周辺は海の民の村が多い。海の民が支えてきた神社だということでもある。ならば、大和地方を中心とする天皇家とは別系統であるのかも。そういえば、天智・天武の時代、伊勢は東国と呼ばれていたぞ。海の民の視点から、文化を中心に日本の歴史を洗い直し、日本の文化とされてきたものを検証し直すことは重要な作業であるのかもしれない。と思っていたら、文化史の網野善彦さんが、そういう趣旨のことを言っていて博物館の入り口近くに彼の文章が掲示されていたのを帰る時になって見つけた。ふーむ。
 そして最後にもう一つ。これからの海と人間との関係の将来のこと。
 芦浜キャンプでは海ガメのことが話題になったが、そういう個々の問題にとりくむのと同時に、対処療法ではなく長いタームで海との関係を探って行く試みも、やはり重要だろう。いったい海を人間はこれからどうしていくのか。ゴミ捨て場にするのか。聞けば、大きな川の河口付近では、もう魚が獲れなくなっているそうだ。想像を絶する工場排水、生活排水で汚染され切っているからか。また、漁協によっては海を守るため、山への植林をしているところさえあるとも聞く。うーん、気の長い話だ。それをはるかに上回るテンポで海を汚染しているというのに。しかし、これ以上の海の汚染を食い止め、海の死滅を防がない限り、人間の未来もない。これはどうやら間違いのないことだろうと確信した。本当に怖い世の中に住んでいるのだ、ぼくたちは。

“徐々に、しかし確実に海は、今、
その汚れを増しています。
海はやがて死のうとしているのです。
海が死んだ時、
たぶん、人間も死滅するのでしょう。”
“今ならまだ、まにあうかもしれません。
海の汚染をくいとめるために、今、
私たちは何かを始めなければならないのではないでしょうか?”
1971年12月 SOSアピールより


日野台高校 自由という名の幻想

 [加賀]

 常磐樹は「ときわぎ」と読み、常緑樹を意味する力強いことばだ。日野台高校は学祭にこの名を冠している。9月に行われた常磐樹祭に、F君はクラスなどによらない有志でバンドに参加していた。「事件」が起きたのは2日目の本番中だ。

 N氏は知人の高校生B子さんと共にF君の演奏を見に来ていた。N氏はそのときの模様を次のように再現する。「音楽室に入ってバンド演奏が始まり、1曲目が終わったところで、F君がマイクを持ってみんなに『昨日はちょっとさんざんだったけど、今日はシンセドラムも用意したので…』みたいなことを挨拶して、2曲目を始めようとしたところで、なんか髭のおっさんが出てきて、バンドの人達に向かってごちゃごちゃ言い始めた。」
 「髭のおっさん」というのはTという教師。文化祭では生徒の実行委員会の顧問を担当している。生徒にあまり手のかからないこの学校では、生活指導部といっても格段の腕力は要しないから、T氏も普段は和やかに生徒と接しているはずだ。
 F君たちにT氏が言おうとしたことは、ドラムを使うなということだった。音楽室を会場としていたのだが、ドラムを使うなということを伝えられたのは9月上旬、文化祭を目前にしてのことだった。F君たちはなんとかしてドラムの代わりになるものがないかと考え、そこで目をつけたのがシンセドラムだった。シンセドラムというのは電気的にドラムの音を作り出す楽器であり、生ドラムと違って音量の調節も可能だ。F君たちはこのことを文化祭実行委員の生徒に伝え、生ドラムの代わりに使うことの了解もとっていた。
 ドラムを使ってはいけない理由について、教師の側からF君たちに満足に説明がなされはしなかったようだ。仮にその理由が振動にあるのならば、振動を発しないシンセドラムを使うことは立派な代替策である。F君たちには、このような論理があったのではなかろうか。実は、F君たちは「事件」の前夜、シンセドラムと生ドラムの違いについて、音楽室でT氏に直接聴いてもらっている。もっとも、このときのT氏の対応は冷たく、感想を求められ「わたしは見に来ただけで感想を答える義務はない」と、初めからT氏には柔軟に考える気がなかったようだ。
 納得のいかないF君は、2日目にシンセドラムを使ってしまうことにする。その結果が、前述のような光景にあらわれる。F君は「ドラムが振動を起こすのでだめだと言うからシンセドラムを用意したのに、なんでそれまでだめだというのか」とマイクを通じて述べ、最後は「ひっこめ!くそじじい!」など感情をあらわに叫ぶ。
 確かに、F君は「きまり」を破った。けれども、T氏には説明が欠けていた。F君によると、T氏は前夜にドラムの使用を禁じているのは「今までの慣習」だからと伝えているが、日野台高校は慣習に支配される停滞した学校なのだろうか。定義と理由づけのない論理が怪しいことは数学教師であるT氏にとって当然のことのはずなのだが。
 日野台高校は、学校としてLiberty~束縛から解放された自由~を掲げる。校章にもLの字がデザインされている。N氏と共に「事件」を目の当たりにしたB子さんは「わたしもおとといまではそれが十分活かされてると思っていました。なのにあれはないんじゃないんですか?」と怒りと悲しみを隠さない。文化祭という場で起こったこの「事件」。会場でF君を応援していた入場客は、日野台高校にどのような印象を持つであろうか。「きまりを守らない生徒に苦労する教師」に同情するのだろうか。
 F君が日野台高校を選んだのは、中学時代に文化祭の見学に来ていて、展示会場でノートに書き込んだ感想に目を止めた在校生から日野台に来ないかという手紙を受け取ったことがきっかけだった。中学生の高校選びでは、偏差値と進学実績という数字がひとつの尺度として幅を効かせる。けれども、三年間を後悔しないようにと、実際に通学する道を歩いてみて、その学校の空気に触れてみるという生徒は多い。それには、文化祭は絶好の機会なのだ。
 ドラムを使うことと学校内での自由とは、直接には関係しないと思われる向きもあるかもしれない。しかし、日野台に限らないが、学校新聞の衰退に象徴されるような生徒会活動の弱体化が、相対的に学校行事をますます教師主導にして来てしまっているということは間違いないだろう。しかも、過保護な親たちの過剰な期待によって、学校は生徒を「お預りして」管理する場になりつつある。これまで生徒が好き勝手にしていた放課後の学外での文化祭準備を、学校の開放時間を延長することで学内でさせるようになったことも、こうした流れのひとつに挙げられる。
 教師主導の学校行事運営は、手間はかかるにしても、むしろ教師にとっては状況をつかみやすくなり、歓迎されるであろう。しかし、それは生徒にとっては学校行事や生徒会運営がどのようになされているのかをわかりにくくすることにもなる。生徒会役員など生徒会の運営に携わる生徒が、一般の生徒から、教師に近い人間として「上の人間」などと言われ、歯がゆい思いをすることもある。日野台高校では、生徒会室に文化祭前だからと関係者以外の立ち入りを禁ずる教師の名による掲示が出された。以前はなかったことだ。

 文化祭後、F君は生活指導部から謝罪文を書くように言われる。模造紙に書かれた謝罪文に対し、他の生徒の関心はあまりなかったようだ。職員会議では、T氏から報告があっただけで、大きな問題にはならなかった。


現場告白シリーズ 第一回
「うちの職場」

 [なすび]

 僕はこの春、短大を卒業し就職しました。これから話すことは僕が職場で実際に体験し、感じたことを書き綴ったものです。

☆内定☆
 "売り手市場"と言われていた去年、僕はある会社にプログラマーとして内定しました。小さい会社だけど憧れていた職業だったし、仕事内容もだいぶ満足するもので、自分ではかなり満足していました。結局は全部で4社に内定しました。さすが売り手市場です(笑)他の学生も7月頃にはみんな内定をもらっていたようです。やっぱりプログラマーが多いんですが、人が足りないのもあって"とにかく入社して!!"という会社が多かったこと。「ほんとにプログラマーとしてやっていけるのだろうか?」と教授達が心配する人でもOKな程でした。"景気がいい"って凄いですね!

☆入社☆
 入社してまず最初にしたことは社会人研修(セミナー)でした。御辞儀の角度、名刺の渡し方、社会人としての責任&行動、等など。竹刀で叩かれたりはしないかと少し心配でしたが、そんなのは無用でした(^^;)。 実際に職場であった成功例、失敗例、事件、等など。その中で一番辛かったのは眠かったことでしょうか?
 社会人研修が終ると次はプログラマーとしての研修です。最初はコンピューターやソフトの簡単な歴史、仕組みといった所からです。テキストは市販されている情報処理2種のテキストや某アXキーからでている有名なシリーズモノでした。 "こんなんでちゃんと研修できるんだろうか?"この考えはモロに的中しました。 はっきりいって時代遅れな教育です。「とにかくやればいいや」っていう考えが伝わってきます。案の定、全然分からなくてパニックになる人ばかりです。自分は「ここは学校じゃないんだから・・・」ってこと言っておいて、こういうコトをされたら説得力ないですよね。それとも反面教師を狙ったんでしょうか!?研修も後半に入ると流石に内容か濃くなってきました。プログラムの正しい作り方、オブジェクト指向、構造化設計・・・。この辺になると新人以外の人(2、3年目)も研修に仲間入りしてきます。やっぱり難しくて、聞いてもみんな頭の中はトーフ状態です(?_?)。結局、最後に 「凝ったプログラムは書くな、他の人間が保守できなくなる」、これしか憶えていません。しかしそこは個性の強い人が多いプログラマー。自分しか分からないプログラムを書くのはいいんですが、自分でも分からないのを書く人が大勢いるからこまってしまう(^^;)。 仕様書なんて立派な物は存在せず、書いた張本人に聞いても「何だろうね~?」と言う始末。自分に出来ない事を教えちゃいけないですよね~。

 この頃になると会社の雰囲気もだいたい分かってきました。どうも経営があぶないようです。とうとう情報業界始まって以来の不況になったのです。後から知ったのですが、経営の悪化から買収されてて入社したら社名が違ってた人とか、自宅待機になってたりと、かなり業界全体がかなりの重傷の様です。内定をもらった頃の勢いは何処に行ったのでしょう?来年度の新卒採用数も激減している様です。私達の頃は何社から内定も貰うかって話してましたが、後輩達はどこにも内定が取れず、就職浪人を覚悟する人もちらほら。自分は1年の差で助かったと思ったのですが、そう楽観するのは早すぎました。

☆幻の基本給☆
 4月に初めて知った基本給。なんと面接の時に社長に聞いた額より3万弱も少ないんです!!「きっと研修期間だけさ」と自分に言い聞かせながら半年。結局、変わってません(;_;)。 それと残業手当。「研修期間中は残業手当は出ない」、この上司のセリフを聞いたときは「まあ、しょうがない」と思ったんですが実際は・・・。研修期間って言っても実際に研修するのは1日に2~3時間程度。後は雑用です。ただでさえ、上記の内容の研修で頭がパプーなのに自分で勉強する間もありません。しか~も!、雑用で研修期間が延びたのに「研修期間延びたからまだ残業手当ださないよ!」って言われてカチン!翌月、研修期間が終って「これからは残業手当出るからね」と言われてホッとしたのに給料日に明細を見ると付いてない・・・。聞きに行くと「えっ?来月からだよ。給料日の関係でね」。「バッキャーロー、確かにお前は今日から残業付くって言ったろー!!」、小心者の私はそう心の中でつぶやき、そして、めーいっぱい身体を使ったアクションで表現したのでした(ホント)。この時、既に私の頭の中には上司&社長への憎しみでいっぱいです。もうほとんど"呪い"の世界です。効果が無いところを見ると、どうやら呪術の才能は無いようです。

☆辞める同僚☆
 私と同じくこの春に入社した同僚が辞めました。20代前半の社員からは「いーなー」という声を浴びながら彼は辞めていきました。まったく、羨ましい限りです(^_^;)。若い社員はみんな会社には既に見切りを付けており辞める準備は進めているのですが、実際に辞めるとなると次の会社、アパート、簡単に辞めさせてくれるかどうか・・・といった問題に阻まれなかなか実行できないでいました。 そんな中で"入社半年"というスピードで辞めていった彼の行動力は羨ましい限りです。彼に続けとばかりに、1歳上の先輩が来春1月、私は4月をメドに頑張る予定です。(みんな応援してね!)

今日、辞めた人から電話がありました。
「そっちどう?」って聞いたら、
「最高っ!!」だって(^^;)

☆お仕事☆
 どうもうちの会社は社員を信頼してるんだか(社員は会社を信頼してないけど)、放任主義というか、イイカゲン(有力候補)なんだか、社員にまかせっきりです。難しい仕事でも「大丈夫、君なら出来るよ」なんて一言で終ります。その間、社会の「ほうれんそう」、"報告"、 "連絡"、 "相談"がありません。1年目のペーペー(私)に仕事をませまっきりです。納期になって「ほうれんそう」をします。その時にって「大変だったんだねー」とかって話をします。期間中に人が相談に行くと日によって同じ質問を同じ人にしても答えが変わります。違う上司が「こうしろ」、「そうじゃない、あーしろ」なんて食い違いはしょっちゅーです。せめて、上の意見は統一して欲しいものです(T^T)。

☆出向・派遣☆  確か出向はないという話で入社したはずなのに、今年既に数人が出向に行ってます。これも不景気の影響です。それも社内の実力者ばかりが出されています。社内に残ったのは古株と新人ばかり。これで不景気を乗り切るっていうんですから御笑いです。現状の開発力がほぼゼロなのにどうするんでしょう?まさか全員を出向に行かせるつもりでしょうか??それ以外に私には方法が見つかりません。「そういう会社」だけは避けたつもりだったんですが。私の見る目はどうやら曇っていた様です。(目をつぶっていたのではないか?という後日談もあります) ☆これから☆
 夢も希望も基本給も(まだまだ根に持っている(^^;;))、無くなってしまいそうな現状を打破すべく、 次の会社を探している私です (マジ)。こんな"なすび君"(私のパソコン通信上での呼び名)へ、励まし・御怒りのお便り、転職の斡旋、忠告、等などありましたら、「放射性れんこん・かわいそうな"なすび君"を助けてあげたい係」でお待ちしております(笑)


<介助>の体験から
「障がい者」と共に生きる社会を目指して

 [KJ]

 0.はじめに・・・

 いま、「れんこん雑記帳」の中でユニークな位置を占め始めているジャンルに、「障がい者問題」があります。そもそも、この「れんこん」で今回の「障がい者問題」が話されるようになるきっかけをつくったのは、涼さんが7月初めにひらいた「障がい者介助を考える」というノートです。ここを出発点に、私たちの社会の中の「障がい者」とされる存在と、社会の大多数である(とされる)「健全者」との、関わり合いということが、ここれんこんでも、模索されはじめることになりました。
 れんこんでのお話しは、「介助」という具体的な体験談をきっかけに始まりました。でも、そのそもそも「介助」というものがなんなのか、ということを、まずお話ししておかないと、この「放射性れんこん」読者(特に、オンラインでお会いしていない人たち)には、分かりにくいかも知れません。

 1.障がい者介助ってなに?

 あなた(いわゆる「健全者」と仮定します)は、街の中で車椅子に乗った障がい者を見かけた事がありますか? え、ない? それはちょっとまずい・・・ それは、あなたの眼が上の方を向きすぎているか、あなたの住む街が階段や段差だらけで、「障がい者」向けの設備などどこにもないところなのか、どちらなのでしょう?
 見かけたことある人は、思い出して下さい。車椅子を後ろから押していた人がいませんでした? そうです。その人。その人は、車椅子を押すことでその障がい者を「介助」していたのです。
 え、車椅子見たことあるけど、ひとりで動いてた? あはは、最近は電動式が普及してるからなぁ。あれなら、後ろの人は必要ないですね。
 では、ここでイメージトレーニングです。あなたが今、あなたのお住まいの最寄りの駅の前にいると仮定して下さい。眼の前になにがありますか。そう、階段ですね。
 階段がない? ・・・困った。だから田舎は・・・(うそうそ)。そういう人は、階段のある駅を想像して下さい(苦しい・・・^^;)
 次に、先ほど想像した、車椅子の人がやってきました。手動でも電動でもいいです。あれ、車椅子の人がなんか叫んでいます。
 「あのーどなたか、階段を上りたいので手を貸して・・・」
 残念ながら、車椅子の後ろの人ひとりだけでは、階段が上れないのです。
 さあ、あなたはどうしますか? あ、今急いでるからな。駅員はいないの? 関係ないや・・・ でもずっと叫んでいるぞ・・・
 車椅子の人はあなたを見ます。「すいません、お願いできませんか?」
 あなたは、考えもしなかったことをいっています。「えーよくわかんないけど、どうすればいいんですか。どこを持てばいいの?」車椅子の人は、どこを持てばいいか教えてくれます。そうしているうちにあと2人ほど通行人が来てくれました。
 「じゃあこれから上ります。ちょっと重いけど、呼吸を合わせて、1,2,1,2・・・」踊り場でちょっと一息ついて、コンコースまで上りました。いやぁ、結構重い。(電動の場合は、特に重いぞ~)
 「どうもありがとう」と車椅子の人。あなたは、また考えていなかったことを口にします。「どちら方面にいかれるんですか? ホームまで一緒に行きましょう」
 はい、どうもイメージトレーニングご苦労様。ここで、あなたのしたことが、「介助」なんです。なぁんだ、介助って力仕事のことだったのね・・・(^^;)

 さて、今あなたが車椅子を持ち上げたその人は、いったいどこから来たのでしょうか? 「え、身障者だから施設でしょ」だって? うーんそういう人ももちろんいるけど、さっきの人の場合は偶然そうじゃなくって、彼の(あ、偶然、男性でした)場合は自宅から出てきたのね。「あ、親が面倒みてるとか」うーん、もちろんそういう人もいるけど、彼は一人暮らしなんですよ。「なぁーんだ、そうなの」
 「え、一人暮らしって・・・どうやって車椅子の人が一人暮らしするの?」
 一人暮らししちゃいけないの? 別にいいじゃん。もちろん、物理的に身の回りの事をするのに不自由な点があるから、そこらへんは介助のお兄さん(おじさんおばさんでもいい。お姉さんがいいという無茶な奴もいる^^;)にやらせる、もといやってもらうんだけどさ。
 そうです。介助っていうのは、この社会で「障がい」をもった人たちが自立して生活(あ、別に一人暮らしとは限らなくて、二人暮らしでも親子三人暮らしでもいいんだけど)していくために必要な身辺の諸事に協力する様々な行為のことです。うーん、正確な定義はできないけど、まぁこんなとこかな。

 というわけで、次は、その「一人暮らし」を当たり前のものとするための「自立生活運動」のお話しです。その前に、れんこんの「障がい者介助を考える」ノートの最初のレスをのっけておきますね。涼さんが書いたの。(抜粋です)

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Subject: 7/3に初めて行った
Date : 11:41pm 7/ 4/92 Author: RYOU (涼)

 telで確認して、行ってきました。7/3の7時前から7/4の2時半まで、一晩泊まり込みで介護をしてきました。眠れなくて、結構きついものでした。

 まず、真理子さんは重度の身体障がい者で、介護無しでは生活出来ません。で、施設に入らずに一般(とは言っても車椅子用の都営住宅)に住んでいます。詳細とかは知らないのですが、ボランティアとしての介護に行ってきたのです。

 まずは、相手が何を欲しているのかが分からないと言う、ごくあたりまえの事に戸惑いました。生活の仕方が違う訳ですから、いろいろな習慣が違うんですよね。

 食事をするにしても、結構時間がかかる訳です。昨晩は、1時間以上でした。
 更に、眠るにしても、何時様態が悪くなるか分からないのも不安要因でしたね。
 もちろん本人にしてもそうんなんですが、介助する側でも神経を遣います。
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 なんか、たいへんそうだけど、以上が涼さんの最初の介助体験談で、次が2回目の感想です。

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Subject: 考える事を放棄したくない
Date : 5:28am 7/ 7/92 Author: RYOU (涼)

 週末は色々あって、確かに肉体的にきついものがありました。でも、日曜日は割と気が楽でした。

 介助と言うと、一方的にこちらが奉仕する様に捉えられるかも知れませんが、そうでもないのです。色々話を聞く事も出来るし、何より自分と違う状況の人との出合の意味では重要ですね。楽しみの追求だけでなく、何がしか考えさせられる思いです。視野を広くする意味もありますね。確かに、時間のやりくりとかは大変ではありますが。

 で、基本的には行政問題でありまして、もっと改善すべき問題が多いですね。
 どうせ税金使うなら、有意義に使って貰いたいものです。介助問題は、そんな部分の疑問も含んでいると思うのです。

Subject: 嬉しいのは
Bytes: 642 Date : 5:28am 7/ 7/92 Author: RYOU (涼)

 介助している相手の調子が良くなる事でしょう。私の場合、相手が結構自立度が高いのであまり困りませんでした。「これはこう言う風にして」とはっきり指摘してくれますから、こちらであれこれ心配する必要は無いのです。でも、これが一般的だとも思えません。ただ、こちらもあまり構える事無く、自然体である事も必要かも知れません。変な表現ですが、「気軽に、優しさを持って人と接して無理はせずに行動しながら考える」って事でしょうか?
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2.自立生活のこと

 あまりネット上では焦点にならなかったけど、「障がい者問題」を考えるとき、「自立生活」ということの理解ぬきには話しが進められないということがあります。ネットの話しでは、そういう話しがちょっと抜け落ちていたので、分かりにくい点があったかもね。で、「自立する障がい者」をまさにテーマにした本があるので、ここではその本の要約・引用を主体としながら、自立生活についてイメージを持って貰いたいと思います。
(「生の技法 家と施設を出て暮らす障害者の社会学」安積他著 藤原書店刊)

 >「自立生活」という必ずしもすわりのよくない言葉は、ここでは、日常生活に介助が必要な重度の全身性身体障害者が、その生活を、基本的に、施設においてでなく、また家族や家族による雇用者によらず営む生活を指すものとする。・・・・障害者の「自立」という言葉は、近年、経済的な自活という意味ではなく、自らの生活を自らの意志で決定するという意味に用いられるようになった。このように解した場合にも、その主張の具体的な現実化の一つのかたちとして、いま述べたような生活があるといえるだろう。

 うわー、なんか大変そうだね。

 >87年2月の厚生省による実態調査によれば、この年、約240万人の18歳以上の身体障害者が在宅で生活している。また同じ時、約5万3千人が施設で生活を送っている。・・・/ このうち、五種類の生活動作の各々の一部分あるいは全部に介助を必要とする者は全体の9.2%、22万1千人(食事)~20.7%、49万8千人であり、この五種類の動作のうちいずれかに全面的な介助の必要な人は30万1千人とされる。施設で生活を送る人々を加えて50万人以上、どれほどか介助の必要な障害者がいることになる。そして介助を必要とする在宅者のうち、約80%の人が、介助の主要な担い手を家族としている。職業についている割合は、可働年齢層で46.7%(一般69.9%)。とくに重度障害者の場合、就労は難しく、就労していても、多くの場合、その賃金は生活を成り立たすには十分でない。親に依存する状態から離れたい、あるいは依存できないとすれば、彼らにとって、所得保障が重要になってくる。生活保護の受給者は、在宅障害者全体の3.95%(肢体不自由者3.98%)で、一般の保護率1.08%に比べ四倍弱である。

 著者は、その中での「自立生活者」の割合は1%以下、絶対数では千人以下と見積もっています。しかし、少しずつその数は増え続けているとしています。
 関係ないけど、「生活保護」ってなんか悪いイメージあるでしょ。でもそんなこと気にしてたら、自立生活やっていけないんだよね。うん。

 >介助者がつく時間は、人によって、一日平均1~2時間程度からほぼ24時間まで様々で、むろんそれは障害の程度に規定される。・・・日常動作の全てに介助の必要な人もいる。・・・技術的なことがいくつかあるが、当人が、あるいは以前からやっている人が教えれば大抵のことはなんとかなる。排泄の世話など大抵の人はやったことがないのだが、やってできないというものでは全くない。・・・

 例外はあるけど、だいたいそうだよね。案ずるより産むが易しといいます。

 >ボランティアを利用していない人は全くいないといってよい。だが、比較的制度の整っている都内の場合、ボランティアだけという人もまた少ない。家庭奉仕員、いわゆるホームヘルパーの制度は多くの人が利用している。だが、それだけで生活していくことは到底不可能だ。また、専従介助者などと呼ばれる有給の定常的な介助者と、その他の公的な制度、そしてボランティアを利用している人がいる。そして、今のところごく少数だが、時間あたりの利用料を媒介機関を通して払う有料ケア制度を利用しながら、生活している人がいる。・・・

 あー、引用だらけになっちゃった。でも、この本、すごく的確に書いてるから、おもわず自分でも書けるようなことまで引用したくなってしまう。どうでしょう、少しは、自立生活のイメージが持てましたでしょうか?

 うん、ここで、当事者の声を聞いてみましょう。前の方の話しで、涼さんが介助した相手の、まりこさんの文章です。これも、ネット上での独立したノート「まりこ色にそまれ!」の、問題提起となった文章です。まりこさんは、文章に関してはプロ的な方で、もう既に著作もありますし、なんか今度は話の特集とかにも文章が載るらしいですよ。れんこんも彼女に原稿料払わなくていいのかしら(^^;)

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Subject: まりこ色って何色?(1)
Date : 6:08am 7/28/92 Author: RYOU (まりこ)

 原発反対の人のほとんどが、「奇形児や障がい者が生まれるか」らと言って運動している人がいるけれど、今、現に生きている障がい者や奇形児の存在を、どう思いますか? 私はそれに対して、今生きている障がい者の存在を全部否定する事になると思うのです。障がい者は障がい者でいいじゃん!! どこが悪いのか教えて下さい。

 障がい者が生きていけない社会なんて、おかしいと思います。自然じゃないと思います。もっと、社会が障がい者介助をごく自然に、例えば喫茶店でごはんを隣の人が食べさせてくれるとか、出来ないかなって思います。

 駅の階段で声を掛ける時に、極力「すいません」とは言いません。なんて言うのかというと、「ちょっとここの階段を上げて(降ろして)下さい」とか言います。別に、「すいません」とか謝る事は無いと思うのです。やってくれたら「ありがとう」とか「またお願いします」とか言います。

 駅員に声を掛けると時間がかかります。駅員だけが介助するのは、おかしいと思います。駅員だけ、腰痛になってしまいます。だから、私は駅員に声を掛けたくありません。もっと多くの人々に、言語障がいの言葉を聞いてもらって、介助をこく自然にやるのがいいと思います。

 障がい者がアパート生活(一人暮らし)をして、もっと街角で見かける様にならないといけませんね。

 水俣の問題も、原発と同じ要素がありますね。死んだら困るけど、障がい者になって、もっと生き生きと胸を張って暮らして欲しい。

 森永ヒ素ミルク事件もあったけど、他の障がい者(青い芝の会に人)に聞いたんですけど、「逆に障がい者が多くなって嬉しい」と言っていました。私は、森永のものは買いませんけど、もらったら食べます。(笑)

 私の子供の燃子(なつこ)を生む時は、私がそううつ病で夫が分裂病でした。
 別に、精神病者でもいいと思いました。どこがいけないのですか?

 良く、ウーマンリブ(女性解放運動)の人が「子供を生むのは女が決めるんだ」と言っていますが、「よう水をチェックして障がい児だったらおろす」と言う人が多く居ます。私は、それに対して断固(障がい者の立場から)反対します。
 こういう事(障がい児と分かって生む運動)を言うのは日本だけです。

 もっと介助者を入れて、家族の負担を少なくして、保育園・幼稚園・小学校・中学校・高校・大学・職場に介助付きで、ごく自然に勉強したり・遊んだり・喧嘩したり・働いたり出来るのに。

 障がい者が自覚を持って、「障がい者で何が悪い」とどんと胸を張って、何か健常者に言われて「このやろう」と思えば(言っても分からなかったら)、ぶん殴ったり噛み付いたり電動車椅子で突っ込んだりすればいい。(笑)
 その位の心構えじゃないと、健常者のペースになりますよ。

 私は、優生思想は嫌いです。何でも健全者に近づこうとする考えだからです。
 例えば、障がい者を訓練で直したり、オペ(手術)で直したり。私の友達でも12回もオペやっても歩けなかったです。

 私は中学3年まで、一生懸命一日5時間親から離れて訓練をしました。けど、何も変わらなかったです。私は、こう言う事言っていますが、養護学校(施設)の医者とか看護婦とか先生の言う事を「はいはい」聞いて、いい子ぶりっこして、障がいが直った方がいいと考えて一生懸命やりました。(親も含めて)そうしたら、自己表現(自分で考える事)が出来なくなりました。

 高校終わってから初めて親兄弟と暮らす様になって、考え方があまりにも違うのでどんどん表に出る様になって、そこで障がい者解放運動に出会って、今の私があります。詳しくは、「まりこ色のそまれ」を読んで下さい。千書房から出ています。図書館ででも読んで下さい。

 何度か都営バスの乗車拒否があって、無理矢理電動車椅子で前から突っ込み、バスを止めてしまいました。バスを動けなくして、乗っかりました。今は、そーゆー元気は無いかな?(笑)

 「今、混んでいるから」と言って断られる場合がありますが、すいてても人がいなかったら電動車椅子が載っからないんだよね。電動車椅子だけで50kgあります。障がい者が乗っていると100kg近くになります。

 とにかく、この社会とか一人一人の意識を変えていかないといけませんね☆
                                  ↑
本当はハートなんだけど
 では、今日はこの辺で。

せんさいなまりこより

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 いかがでしたか? ネットでも感想を募ったけど、「放射性れんこん」で読んで感想を持った人は、ぜひ編集部あて送っていただけないでしょうか。そうしたら、まりこさんのもとに届けるようにします。
 「んーこれは違うんじゃない?」とかいう意見でもいいですよ。でも、上の発言は、やっぱりいろいろことばに尽くしがたいような困難や苦痛、悲しみを踏み越えてきたうえでのことばで、その結果として彼女の現在の自立生活は、継続されているんだ、ってことだけは、心に留めておいて貰いたいですね。

 3.あは、枚数が尽きてきた

 さて、「放射性れんこん・障がい者問題原稿」も、担当者の必死の枚数稼ぎ攻撃が功をを奏して(^^;)早くも「紙幅が尽きて」きました。  本当は、いちばん重要(?)な、「障がい者差別問題」と、それに絡んでくる差別意識の問題とか、差別用語の問題とか、「障がい者と労働」の問題とか、施設の問題とか、色々論じたりないことがあるんだよね。
 でもそれは、とりあえず今回が「連載第1回」ということで次回にまわすとしてっと(めんどくさいことは「次にまわす」というのは、基本だな^^;)
 うん、でも正直なところで、この問題をわずか1回で終わらせてしまうのには抵抗があるんだな。私自身がこのごろこの問題での書き込みをさぼりがちで悪いと思ってるんだけど。でも、この問題に関してだけは、「卒業」して別の問題に乗り移っちゃう、ということは、自分ではないはずなんだ。
 だから、次回以降も、「放射性れんこん」に私が関わる限り、「障がい者」の頁は、1頁でも半頁でも、載せるつもり。
 みなさんも、少しずつでも、この問題に関心を持って貰えれば嬉しいです。「よくわかんない」とか言わないでね。私もそもそもよく解ってないんだから(^^;)

 1回目の最後に、ここまで読んでくれた皆さんに心からお礼申し上げます。
 あと、「障がい者」関連のノートに書き込んでくれたすべての皆さん、皆さんの書き込みを、できればどれもこの場に披露したかったんだけど、私の力不足でできなかった。ごめんなさい。
 ネットに参加しているみなさん、関連のノートを、もう一度読んでみて、そして新たにこの問題に参加してみて下さい。あなたの一言が、意外な波紋を呼んで、多くの人を奮い立たせるかも知れません。

<Appendix:1>宣伝です。

 「全障連大会迫る! 11月22~23日 立川・日野・国分寺で会いましょう」

 全障連というのは、「全国障害者解放運動連絡会議」の略称で、基本的に「反差別、共生」というスローガンのもとで障がい者の差別からのトータルな解放、自立生活を中心とした”共に生きる社会”の形成を目指す社会運動団体のセンター的な組織であります。
 全障連大会は、毎年、通常夏に全国のどこかで開催される「全国交流大会」という、全障連最大の集会です。今年は、秋に立川を中心にやります。
 大会といっても、中心は問題関心別の分科会です。参加者は、自分の関心あるテーマの分科会に参加して、全国から集まった仲間の報告を聞き、あるいは自分のレポートを行い、経験を交流して今後の活動に生かしていこうとします。
 全障連というぐらいだから、障がい者が中心ですが、もちろん健全者が参加しても構いません。興味のあるテーマがあったらどんどん首をつっこんで行けばいいでしょう。
 ちなみに、去年(大阪大会)の分科会テーマを記しておきます。

 高槻市:自立生活1・教育2・教育3・医療・就労・施設
 摂津市:差別とえん罪・保安処分
 吹田市:作業所3・行政闘争・理論講座
 箕面市:作業所1
 東大阪市:作業所2
 大阪市:自立生活2・教育1・「ちえおくれ」の仲間・交通

 その他、文化活動紹介、アメリカやイタリアでの障がい者運動のビデオ上映など

 経費がかかるので、参加費としてたしか3000円位は払いますけど、内容満載のレポート集はもらえるし、損はしないと思うよ。

<Appendix:2>「障がい者」という書き方について

 「障がい者」という表記に?と思われた方も多いと思います。これは、れんこんネットの会員である「羽柴筑前守秀吉」さんの、「関西方面で、障害者ということば(字面)を標的にした差別落書きが学校で頻発した」という指摘があり(ここの経緯はもうちょっと複雑なんだけど、結論的にはこう)、「障害者」という表記は使用するべきではない、という提起によるものです。
 この書き方は、社会的にはもちろん、当の「障がい者」達の間でも一般化しているとは言えません。ただ、そういう差別事件が起こっている事が、「障がい者」の間でも知られていない面もあることは事実です。もちろん、知ったからこの(「障害者」という)表記を、どの障がい者もしなくなるか、は疑問ではありますが。
 れんこんネットでは、そういう経緯もあり「障がい者」という表記は一応スタンダードになっていますが、まぁ、はっきりいってそう表記する面々の統一見解があるわけではありません。障がい者の立場からすれば、自分の形容に「害」という文字が入っていたら気持ちが悪いのではないか、という考えもあるでしょう。
 用語の問題と言うのは、とても難しい側面があります。あまりとらわれすぎて肝心の議論がおろそかになるのも大変面白からぬことです。私見では、いずれにせよ強制しないのが好ましく、どうしても「障害者」と書きたいという信念のある人はそれでよかろうと思っているし、そもそもちょっと口を出してみたいというひとが書き込みの段になって用語問題でつまずいてしまうような状態は避けたいと思っています。  もちろん、言葉は生き物であり、一つ一つの吟味は欠かせません。このネットでは、ハイパーノートの特長を生かし、言葉の問題があれば、一つにつき1ノートを費やして、心行くまで討論できる仕組みになっています。よろしく。
 いままでまな板にのぼっていることばは、「障害者」のほか、「頭に来る」「ブラインドタッチ」などです。ふはっ。


バイクから自然環境

 [涼]

私はバイクが好きで、あちこちに出かけます。そこで出会う自然について感じている事をつれづれなるままに・・・。

1.移動手段の選択

自然の中へと行く手段として、自動車や電車等色々あるでしょう。私は、バイクを利用する事が多いです。しかし、当然ながら環境汚染してしまうと言う矛盾が生じます。しかし、どんな手段であっても、歩いて行くので無ければ何らかの環境汚染になります。まぁ、自転車と言う手段もありますけど。

環境汚染問題は、範囲が広すぎるので今回は深入りしませんが、とりあえず何らかの環境破壊をして人間が生きているのは事実です。別に、開き直っている訳ではありません。ならば、より小さな被害で済む手段を採る事が懸命でしょう。これは、何も遠くへ行く時だけでは無くて、日常の事でも言えますね。

結局は、現在の人間が住みにくくしない為で、何も偉そうに「地球環境を守る為」なんて大げさな事ではありません。歩いて行けるなら歩けば良いし、少し遠いなら自転車に乗れば良いでしょう。そして、更に遠い場合には電車を利用します。それでも、不便だったりすると他の交通手段が必要になるので、私はバイクを利用しています。少なくとも自動車よりはましでしょうから。これを「五十歩百歩」と言うのかな?単なる気休め?自己満足?

2.バイクの排気ガス対策

確かに、自動車よりはガソリン消費が少ないバイクですが、反面排気ガス規制があまりされていません。そして、大排気量になると結構燃費が悪いものです。しかし、新しい動きとしてバイクに排気ガス対策をする動きが出て来ています。一番最初は、BMWでした。最新機種のみならず、過去の機種(現在販売しているもの)にも対応すると言ったものです。ちなみに、法規がらみでは無くて自主的なものです。具体的には、4サイクル直列4気筒エンジンのKシリーズと水平対抗2気筒のRシリーズで、オプション扱いです。

技術的には、自動車の排気ガス規制に則ったものですが、バイクならではの難しさがあります。それは、バイクが曲がるにはエンジンのレスポンスが自動車以上に重要だからです。つまり、定状状態より過渡特性が重要だと言う事です。更に、小型可する必要もあります。外観やバランスも考慮する必要があるでしょう。そうした、儲かるかどうか分からない事に対して、メーカーが研究/開発すると言うのは勇気が要るでしょう。やはりお国柄なのかな?(BMWはドイツのメーカーです)

具体的内容としては、電子制御による燃焼コントロール+触媒になります。自動車と同じですね。ただ、古いエンジンのRシリーズの場合、セカンダリー・エア・システムと言う、空気を導入して一酸化炭素等を燃焼させる方式です。当然ながら、出力はある程度減少します。もっとも、元々100馬力もある事もあって、体感上では差が出ない様にしてあるとの事です。

しかし、大排気量のバイク等はごくわずかです。実際に、東南アジア諸国では小排気量のスクーター等による大気汚染が発生しています。確かに、小排気量だと難しい問題があるでしょう。しかし、少しでも排気ガスのきれいにする方向へと向かって欲しいものです。パワー競争に明け暮れる自動車と違い、最高出力の自主規制をしているバイクなのですから。(注1)今や、世界中のバイクのシュアの多くを持つ日本の企業が、真剣に取り組むべき課題でしょう。

その日本企業ですが、海外向け(1000CC)ながらヤマハが発表しました。これから、他の機種へと対応させて欲しいものです。

ここで、「それは根本的解決ではない」と批判するのは簡単でしょう。しかし、まずはそう言った意識が必要なのでは無いでしょうか?そして、なるべく使わずに済む生活へと進める事が肝心だと思います。自己満足で終わるかどうか、無駄なあがきなのか?

ただ、再生紙にしてもそうですが、企業先導の場合の危惧として「環境にやさしい」と言うのが売りものとして扱われていく事でしょう。あくまでもこれは方便にすぎない訳で、それが最終目的では無いのです。それには、我々が賢くなる必要性を感じます。

で、先ほどのBMWの例で言えば、購入者の約半数が排気ガス対策のものを購入しているのです。日本円にして約7万円高くて、使用上の優位性は無いのに。今、日本で発売されたらどうだろう? 10%もいない気がします。もっとも、BMW程高価なバイクを購入する人だからかと言うのもあるとは思います。

3.自然環境への乗り入れ

最近はオフロードブームとかで、山や川等に乗り入れる車やバイクが多く見受けられます。それが、「自然破壊だ」とか批判対象になっています。確かに、目に余る行為も多い様に思います。しかし、だからと言って舗装された郊外のバイパスや高速道路はどうなんでしょう?

やはり根本的にはおかしいです。そして、自分もその加害者となっている事もあり、心が痛みます。どうしてこうも自動車が多いのかと。直接排気ガスを被るバイクに乗っていると、それを実感します。自らが排気ガスを出していながら、こう思うのも何ですが。それは、単に飛ばしに出かけて暴走する人を見ていても思います。渦中に居ながら分かる面もあるのかと思います。

4.何が進歩なのか?

そうして考えると、最近の高級化や利便性の追求にも疑問があります。でも、それを利用しているのも自分。さて、困ったものだ。あれば使うが、無くても良い。「ならば、今すぐ使うの止めれば?」とも思いつつ、そこまでは決心が付かないのが現実かな?

でも、自分の出来る範囲から何かをしないと、何も始まりそうに無い気がしています。だから、とりあえずは自動車を買う事はせずにバイクに乗っています。そして、自転車や徒歩で済むならそうする事。今の私の出来るのはこれだけだけど、何かが見えてくるかも知れません。我が者顔で疾走する自家用車に対し、僅かな突っ張りかな?

ちなみに、生活に必要がある可能性も考えて免許はありますよ。これは、無駄なのかな?だいぶ話が飛びますが、バイクに乗りつつこんな事も考えている訳です。


原発用語の基礎知識
その2:安全対策

 [McOtto]

 日本で原発が動き出してから29年、気が付いてみれば私達の周りには商用だけでも40を上回る原発が動いています。なんとも恐ろしい話ですねぇ。絶対に壊れないというのならまだいいのですが、どうもよくトラブルが発生するようで、先日もECCSが作動したなんてニュースがありましたね。まったくこんな話を聞くとぞっとします。原発の安全対策は大丈夫なんだろうか? 心配だなあ。そんなことで今回の話は「安全対策」。ではいってみましょうか。おっと、今回も簡単な話ですので、反原発免許皆伝の方は我慢してください(笑)

○ポンプ

 原発内部には冷却水の循環などのために沢山のポンプがあります。そのポンプが壊れたら冷却水の循環が止まってしまい、炉心はどんどん高温になってドッカーン・・・
 そんな事態が起きないように複数のポンプでバックアップをとっています。ですが、今年('92年)の9月29日には福島1-2でそのポンプが原因となってECCSが作動してしまいました。

○ECCS

 最近は頻繁に名を聞くようになったECCS(EmergencyCoreCoolingSystem:緊急炉心冷却装置)、名前のとおり緊急時に作動するものです。これはなにかの原因で炉心が冷却水から顔を出しそうになったときに水をブッかける装置。高圧注水系、低圧注水系、蓄圧注水系などがあり、炉心の状態によって使い分けるそうですが、結局のところどれも水を入れるものです。これが作動しなかったら炉心が自分の出す熱で熔けだして(メルトダウンってヤツです)圧力容器、格納容器を突き破り地下水と接触して水蒸気爆発、というのが最悪の事態。ですからECCSが作動しなかった場合には現実逃避しましょう、ではなくって(^_^;)、かなりの数の人が放射線の影響をうけることになるでしょう。

 本来ならそのくらい最後の最後で動くもので、通常は作動するはずのないものなのですが、昨年の美浜2号機に続いて今年も福島1-2で作動してしました。今回の事故は3系統ある高圧復水ポンプ(通常2系統が動作)のうちの1系統を点検中に、動いていないそれが動作中となっていたため3系統が動作していると制御装置が誤認してしまい、実際に動いている2系統のうちの1系統を止めてしまったから、残りの1系統だけでは給水できずに水位が下がり、その結果ECCSが作動してしまった、ってことみたいです。バックアップのための予備があるというのにそれが動いていると誤認して誤動作してしまうのもまずいのですが、1台だけではまったく役に立たないポンプというのは問題が大きいですよね。

 原因は人災だったと発表されていますが、実は他に隠していることがあるんじゃないか、などとも言われていますけど、真相は分からないので書きません。東電が嘘つきでないことを願うばかりです。

 さて、ECCSが動作しなかった場合には大変なことになりますが、動作しても問題が起こります。「熱ショック」「熱疲労」と呼ばれている、熱によって金属(この場合圧力容器やその他の構造物)がもろくなってしまうことです。熱いものに冷たいものを入れると割れるなんてことは誰もが聞いたことがあるでしょう。福島1-2ではECCSが2回作動していますから、かなり疲労しているのではないのでしょうか?東電は問題ないと言っていますが・・・

 美浜事故以前にはECCSなんて過剰設備だからいらん、とか言ってた人もいましたが、最近はそんな話はまったく聞かなくなりました。ま、当然でしょうな。過剰設備というのではなくて、お金がかかるからなくしたいというのが本当のところのようです。

 しかし、なんか年中行事になってますね、ECCSが作動するのが・・・ それが当たり前のことと思われないようにしなければいけないのです。動いてよかった、というよりも動くことがそもそも間違っているのですから。そういえば、某イミダ×という本では「緊急」ではなく「非常用」と書いてありましたが、これも言葉を少しでも和らげようという魂胆なんでしょうか?

○緊急用発電機

 さて、天災、例えば地震なんかが起こった場合はどうするんでしょう? ブッ壊れる、なんてことはないそうで、関東大震災の3倍程度の地震にも耐えるように作ってあるそうです。本物を揺らすわけにはいかないので(ま、当然ね)、1/4くらいの大きさの格納容器の模型を震動台に乗せて試験しているとのこと。

 そして案外知らない人が多いのですが原発には緊急用のディーゼル発電機が備えてあるということ。これは地震などで原発が緊急停止し外部からの電力の供給もストップした場合に、冷却水を循環させる電力を供給したりします。なんせこれがないと電力を供給できません。原発は止まっていますから(笑) この発電機は発電指令を受けてから13秒以内に始動が完了し、30~60秒以内には全負荷運転が可能になるようにできているとのこと。(よく分かりませんが(笑))

 この発電機は毎週、起動試験をして動くことを確認しているそうです。え? それでもいざというときに動かなかったらどうするんだって? ・・・動くことを祈りましょう(^_^;)

○おわりに

 これらのほかにも色々と安全対策が施されていますが、それでも所詮は人間が作っているものですから間違いは当然あります。そしてちょっとした間違いさえ許されないのが原発なのです。

 さて、ページの残りがなくなってしまったのでこれでおしまいです。基礎"知識"と言いつつもかなり私心が入っておりますが、私は原発反対なんだから仕方がない(笑)。結局のところ、原発をどう思うかはこれを読む人それぞれでしょう。「身近にある」原発を考えて欲しい、それのきっかけになればいいな、と思います。
 これを読んでの感想や質問がありましたられんこんネット事務局までご連絡ください。(嘘つき、というのでもいいですよ(^_^)) 質問にはあっちこっちを這いずりまわってでもお答えするようにします(笑)

 それではまた(^_^)