インパクト出版会から、花崎梟平さん著の最新刊が送られて来ました。 『<じゃなかしゃば>の哲学』という題名の本です。 まだ読んでないんだけど、水俣の方言みたいですね。>じゃなかしゃば 結構面白そうな本なんで、読んだら感想書きます。
>>何やら言葉が新しくなっただけで、特別新しい概念はないような気がするのですがどうでしょう。 >確かに、そのとおりだと思います。 >ただ、名前を得たときに力になることはあるような気がします。 > >たとえば、「障害学」のように。 「名前を付け直すこと」の効用というのは、確かにあるような気がします。 名前というのは、概念の枠組みを指し示すシンボルなので、内容が同じであっても シンボルが変われば、それに対する人々の捉え方、姿勢に影響をおよぼすというこ とはあるんではないか。 ・・・と、サブシステンスという単語を調べてみたけど、「生存」という意味なのね。 そうすると、エコロジーよりはだいぶん哲学よりな感じになりますね。 で、「持続可能な社会」というタームも連想してしまったのだけど、そうなるともう 最近の行政とか、企業の最先端ブリッコに利用されてきている概念ですね。 サブシステンスはまだそうなってないですよね。
もう決まっています?>zipp 昨年、行けなかったので今年はぜひ参加したいです。 ただ、7/26~28は、死刑廃止フォーラムでフジロックフェスに参加するということになっているので、もしその期間だと行けないかもですが。
レジさんWrote; >何やら言葉が新しくなっただけで、特別新しい概念はないような気がするのですがどうでしょう。 確かに、そのとおりだと思います。 20年前にパパラギに書いてあったことと、そんなにかわらない と感じています。 ただ、名前を得たときに力になることはあるような気がします。 たとえば、「障害学」のように。 >それを実現していく方法論がいぜんとして有効なものがないというのも昔から変わってない >ように思います。 それもそのとおりです。 山之内靖さんの岩波新書「ウェーバー入門」は好きな本なのですが、 そこに「転轍機」が働く時期がくることが書かれています。 そんな風に価値観の転換が図られるのかどうか。 小さな取り組みを重ねるしかないという人も著者のなかにはいます。 ま、とりあえず、ぼくは叫び続けるし、歩き続ける、そして疲れたら休む。 それが自己満足であってもいいかなとも、思っています。 こんど、出版記念パーティーをやることになりました。 中村尚司さんがスリランカの平和構築とサブシステンスについて 30分くらい話してくれるそうです。 勝俣誠さんもコメントしてくれるそうです。 7月23日の火曜日の夜。会費は3000円くらい。 興味があったらぼくに連絡してください。 追加 ZIPPさんWrote; >「ダーウィン主義」への逆行 よくわかんないです。
確かに、サブシステンスってわかりにくいですよね。 この概念が本当に有効なのかどうかも自信はありません。 とりあえず、とっかかりとしてどうかと思ったのですが。 日本で一般的になるためには、漢字にしたほうがいいのかもしれません。以下は紹介した「環境を平和学する」からの引用でのサブシステンスの説明です。 ===以下、引用=== 3. サブシステンスにもとづく平和 もともと人類学などで自給自足経済を意味したサブシステンス概念に、本書では次 のような新しい意味あいを込めて用いてきている。 ポランニの影響を受けたウォーラーステインの世界システム論には、中心部が主と して第三世界サブシステンス領域を収奪することにより近代世界システムが成立して きたという理解がある。同じくポランニを源泉とするイヴァン・イリッチおよび玉野 井芳郎らによって、市場経済を相対化しサブシステンスを志向する論も説かれてき た。マリア・ミースらによって、フェミニズムとエコロジーの視角からの「サブシス テンス生産」を基盤にする新しい社会の展望もなされている。 サブシステンスの基本には、第2章で見たように物質代謝(メタボル)としての人間 の生存や自然と人間との循環関係があるだけでなく、人間の生殖(リプロダクション) も当然ながら含まれる。 第1章では、「進化の過程を通じ、人類は自然の循環のなかで永く維持存続が可能 な社会をつくり、生存し続けてきた」ことから、「自然生態系のなかで人間社会を維 持し、再生産していく仕組みがサブシステンス」と説明していた。 人間の本来性、すなわち潜在的実現可能性というものは、放置されて自然に発現す るわけではない。80歳まで生きるはずの新生児が生まれても、放っておかれたらじき に死んでしまう。親・親族・友人・近所の人たち、医療労働者・教育労働者・その 他、周囲のあらゆる人びとが介在し、育み見守っていくことを通じて発育が次第に達 成される。本来性を実現させる人びとの営為の総体とその社会的仕組みとが自然条件 とともに存在し機能することで、本来性は現実のものとなる。そのシステムこそがサ ブシステンスなのだ。 ===引用ここまで=== これは編者の横山さんが4章かどっか(定かでない)に書いたものですが、 ここでの本来性というのは平和学の概念で、本来、80歳まで生きられる人が その可能性(本来性)を奪うのが暴力、というふうな使い方での用法です。 つまり、やみくもな経済成長を求めるありかた(開発パラダイム) から、明確に訣別し、サブシステンスを求める価値観への転換が問 われているということを明確に自覚しなければならない時代に突入 しているように思うのです。 まだまだ、説明したりないとは思うのですが、とりあえずこのくらいに しておきます。 つーた (まあ、あんまり難しいことはわからないし、わかろうとも思わない) (間違ってたら、ごめんって謝ればいいかな。)
そうか、レジさんはサブシステンスを「エコロジー」ととったか…、 ぼくは、そのつーたさんの書き込みでその言葉を知ったのだけど、 それを読んで、「ダーウィン主義」への逆行ではないのか!?と思った のだ。 今年も芦浜通ってます(^^) 先週末現在2頭のウミガメ上陸!
つーたさんの紹介しているサブシステンス、何やら言葉が新しくなっただけで、特別新しい概念はないような気がするのですがどうでしょう。エコロジーという言葉が一般的に社会学的用語として使われるようになったのは、20年くらい前からでしょうか。アンドレ・ゴルツの「エコロジスト宣言」が出たあたりではないかと思うのですが、そもそもエコロジーという言葉で表現されている概念ももっとずっと昔からあったのでしょう。 いずれにしても、そういう考え方には全面的に同意できるのですが、それを実現していく方法論がいぜんとして有効なものがないというのも昔から変わってないように思います。ゴルツは現在の社会を劇的に変えることなくエコロジー共同体を模索することは可能であるという提起を行っていましたが、「可能である」というのと、「その可能性が実社会で追求される」ということの間には大きな距離があるようです。 どこまでも、どこまでも経済発展が続くということはどこかに無理がありそうであるというのは、誰もが感じることでしょう。さらに、その発展の過程で多くを得る人達とほとんど得られない人達が、その差が広がりつつ存在していくことも、多くの人がすでに実感していることでしょう。 しかしながら、まだまだ相当長い間、今のあり方を変えないでもやっていけるのが現実でしょうし、そうし続けようとする勢力が主流派でしょう。 世の中、なかなか変わらないものですね。しかし、中には変わったこともあって、それを書こうと思って、このページを開いたのでした。それを書くのは、また次のメッセージにします。
>>Eggsさん >詩林堂で今度二階の一部屋も借りることになったんで、近く遊びにきなよー。 おひさしぶりですー。シリは名前が変わったんですね。 霧の森からポエムが聞こえてきそうな感じ。 なかなか八王子駅周辺に行く事はないんですが機会があれば是非。 >>KJさん 学校にダイアルアップPPPできるようになって パソコン通信から離れてもう5年ぐらいです。 Googleでは「シャドウパスワード」だったと思います。忘れちゃいました。 サーバーの解説のページですので、裏口から入ったような気分。 恥ずかしながら半年間も無職してます。なかなか仕事が見つからずにだらだらと・・・ >>レジNさん わぁアメリカに住んでるんですか。 シリはもう辞めちゃったのでしょうか? 電車に閉じこめられたの、懐かしいです。 新宿変電所の火災が原因でJRが止まってて、 同時に多摩地区でも大停電で、 翌日、鼻の手術で入院の予定なのに小岩オフでチリビールのんで 病院で下痢してた思い出・・・。 僕も、たまにマイルストーンビルドを触ったりMozillaに興味持っていました。 バグが多くてIEを使っていましたが、1.0は今のところ常用できそう・・・ ATOKでフォームへの書き込みを素早く入力すると、 入力したものが消えたり、変換後に確定したら二重に書き込まれたり する症状にちょっとイラついています。 #バグレポートをするのもいろいろ大変そうで手を出しづらいような感じでして。。。 IEで確認しながら作ったCSSのページが、Mozillaで崩れてしまっていて あわててMozillaでも見れるように修正しました。 <li>のmarginの解釈が、IEとMozillaで違っていまして 双方で同じくする方法は <ul>のpaddingを0にしなければならないと判りました。
IE使わないっていう話でした。 Mozillaっていうのがブラウザだって知りませんでした。 ネスケ4.7*とかいうのを使ってますが、何がいいんでしょ?
つーた@工場労働者・本の行商中 です。 いくつかのMLで書いたので読んだ人もいるかもしれませんが、以下宣伝です。 (以下、障害学MLに書いたものへの訂正版です。) 一昨年の暮れ、別の方面で「サブシステンス」という言葉に出会いました。 それについて環境・平和研究会という平和学関係の人たちの中で少し勉強しています。 いろいろな人がこの言葉をいろんな風に使っているのですが、 とりあえず、サブシステンス=「自然生態系のなかで人間社会を維持し、 再生産していく仕組み」という風に考えています。 さて、 GDPの成長を第一義的な価値にしたり、第三世界はキャッチアップしなければな らないという価値観では地球は続いていかないということは明白になりかけて いるのに地球の大部分の政治を動かす価値観はなかなか変わりません。 いろんなものや人が開発されなければならないというパラダイムはまだまだ 幅をきかせています。 そこで、サブシステンス志向というのが出てくるのです。 地球は開発・発展・成長パラダイムからの離脱を求められている。 そこで違う価値軸としてのサブシステンス志向なのですが、 障害学をそういう観点で位置づけると、無理がなくなるように思うのです。 効率や経済成長を追い求める社会の価値観の中に障害者施策を位置づけると どうしても、きしむものがあるような気がしています。 価値軸をサブシステンス志向(サブシステンス=「自然生態系のなかで人間社会を 維持し再生産していく仕組み」)という風にずらすと、すっきりしてくるのではな いかと思うのです。 物の豊かさや効率ばかりを追い求める社会からの転換が求められているときに、 障害学が主張する価値観は、障害者だけの利害を超えて有用である(なんか自 分の言い方がねじれてる。有用を求めないための有用!)のではないでしょうか? === おまけと言うか、これが書きたくて書き出したのですが、 ぼくがかかわった本の紹介です。 本は学部の学生のテキストになるように作ったものなので、 読むのに専門的な知識はいりません。 戸崎純・横山正樹編、『環境を平和学する! 「持続可能な開発」からサブシステンス志向へ』 法律文化社、2002年6月20日出版(もう出来てます) 2100円 ==以下は、本の帯から== ・環境を平和学すると何かが違って見えてくる ・<開発パラダイム>から<平和パラダイム>への転換に向け、オルタナティブを提言 ・ヨハネスブルグ環境開発サミットへサブシステンスの視点を! ==帯、ここまで== ==以下、「はしがき」から== 本書ではサブシステンス概念を軸に環境問題をとらえて平和学の展開を試みる。か といってこれは平和学の「各論」のひとつには収まりきれない。むしろ平和学のベー スというべきだろう。人を「個」だけでなく「類」として、また「累」(累代=世代 を重ねること)として、共同性と生命連鎖の中に生かし続ける諸条件のすべてがサブ システンスだからだ。 「環境を平和学する!」と、何かが違って見えてくる。 これまでの取り組みのいくつかも、もしかすると見当はずれの方向への努力だった かもしれない。何をなすべきか、いや何をしてはならないか、どこに努力を集中すべ きか、本書をひもときながらともに考えていきたい。 環境問題への取り組みに生命(いのち)を吹き込むもの、それが平和学なのである。 (「はしがき」より) === ぼくの書いたところの出だしも紹介します。今読み返してみると、ぼくの書いたと ころはPP研を中心とした、いろんなところで聞いたこと、そしてそれをきっかけに 読んだことの寄せ集めになっています。以下は校正前のデータです。 ==== 17章「グローバル化」と向きあう人びと 1、はじめに 「もうたくさんだ。」(*1)と宣言して、1994年1月1日にサパティスタは反 乱を開始した。 グローバル化が貧しい人をより貧しくする。飢えや治療可能な病気で命を落とす人は 世界中のさまざまな機関の努力にもかかわらず、再び増え始めている。(*2) 他 方、一握りの経済的に非常に豊かな人に使いきれない富を生みだす。そんな世界にサパ ティスタは「もうたくさんだ」と宣言し闘争を開始した。その日はNAFTA(北米自 由貿易協定)という、新自由主義にもとづく協定が発効した日だった。 近年、とりわけ80年代後半以降、グローバル化の嵐はとどまるところを知らない。 そして、その犠牲が次々に顕在化する中で、それへの抵抗も始動している。この項で は、グローバル化に対抗する運動と、それが表現する問題を紹介する。それが平和学の 実践につながると考える。平和学が提起する積極的平和や不条理な苦痛の除去は理論の みで成立しない。世界中の現場で平和学的な価値を求める多種多様な実践が行われてい る。グローバル化に反対する運動もその一翼である。 読書を読書で、勉強を勉強で終えてほしくない。この世界の中で自分がどこに存在 し、いかなる役割を果たすのかということに自覚的でありたいし、あってほしい。サパ ティスタが言う「もうたくさんだ!」の中身を以下で考える。 =====